高 祖 善 導 大 師 和 讃 解 説

①歌詞

1 (あお)いで(ほん)()を (たず)ぬれば

()(じゅう)(はち)(がん) (じょう)(じゅ)(しん)

()して(すい)(じゃく) (とぶら)えば

(せん)(じゅ)(ねん)(ぶつ) ()()()()

 

2 ()(そん)(しん)() ()()()()

つたえて(つく)る (かん)(ぎょう)(しょ)

(れい)(ずい)ここに (あら)われて

(にょ)(らい)(じき)(じゅ)の (とうと)さよ

 

3 ()のいましめと (じょう)(ごう)

(かた)(すがた)を (しめ)したる

()()(びゃく)(どう)の (たとえ)こそ

永遠(とわ)(くち)せぬ (おし)えなれ

4 ()(くず)(はら)の (はる)(そら) 

(はん)(こん)(じき) ()(げん)

()()(たい)(めん)の 證誠(しるし)こそ

(ゆめ)にも()しき (ちぎ)かな

 

5 (へん)()(どう)()の (いずみ)より

(なが)()でたる (よし)(みず)

()()(こころ)を (うつ)つつ

()()(すえ) (たの)もしき

 

6 (こう)()(あと)を (しの)もの

(たれ)(ねん)(ぶつ) (わす)めや

()()()()()(ぶつ) ()()()(ぶつ)

()()()()()(ぶつ) ()()()(ぶつ)

②題名

「高祖善導大師」とは、法然上人が「(へん)()(ぜん)(どう)(ひとえ)に善導に()る)」と師事された中国唐の時代、浄土の教えを説かれたお方で、浄土宗では「高祖善導大師」と尊称します。善導大師を讃える和讃ですので「高祖善導大師和讃」と呼びます。

③作詞者

(ひら)(まつ) (だい)(しん) 明治20年(1887)~昭和40年(1965)。愛知県出身。兵庫教区()(たみ)組大蓮寺の第24世。昭和3年(1928)浄土宗典編纂委員に任ぜられ『浄土宗    教学大系』宗義編を執筆されました。「花まつり和讃」の作詞者。

④作曲者

(まつ)(なみ) (もとい)(まつ)(なみ)()(どう)) 大正2年(1913)~平成31年(2019)。茨城県出身。大正大学卒。岐阜教区(たか)()組圓心寺の第19世。東海中学・高校(名古屋市東区)に奉職し、校長や東海学園資料館館長などを歴任。昭和21年(1946)浄土宗教学部長吉水智承師の先導のもと、鈴木錦承師とともに吉水流詠唱を創始され、以来、浄土宗吉水流詠唱の作詞、作曲や指導をされる。浄土宗芸術家協会副会長、児童教化連盟理事長、浄土宗詠唱委員会委員長、浄土宗詠唱教導職、総本山知恩院吉水講顧問を務められる。松濤基は作曲家としてのペンネーム。「高祖善導大師和讃」は昭和50年(1975)11月24日に作曲されました。

⑤全体の解説

善導大師は(ずい)(たい)(ぎょう)9年(613)に生まれ、(とう)(えい)(りゅう)2年(681)に往生なされました。法然上人より500年前のお方です。この和讃には善導大師の著書『(かん)() (りょう)寿(じゅ)(きょう)(しょ)』のこと、「()()(びゃく)(どう)」のこと、「二祖対面」のことなどが説かれています。善導大師・法然上人に思いを馳せ、二祖への感謝と報恩の気持ちでお唱えしましょう。

⑥語句の解説
1番

 (あお)いで / 仰ぐとは、尊敬の気持ちをもって思うことです。

 (ほん)() / 仏・菩薩が衆生を救うため、仮の姿で現れることを(すい)(じゃく)と言いますが、本来の姿を本地と言います。

 (たず)ぬれば / 道理を探し求めたならば、質問し答えを考え求めたならば。

 ()(じゅう)(はち)(がん) / 阿弥陀仏が(ほう)(ぞう)菩薩の時にお建てになられた誓願。その数が四十八あるので四十八願とも言います。

 (じょう)(じゅ)(しん) / 建てられた誓願が成就なされた、つまり誓願が完成された方。

 ()(じゅう)(はち)(がん)(じょう)(じゅ)(しん) / 阿弥陀仏のことを指します。

 (あお)いで(ほん)()(たず)ぬれば ()(じゅう)(はち)(がん)(じょう)(じゅ)(しん) / 法然上人の著書『(せん)(ちゃく)(ほん)(がん)(ねん)(ぶつ)(しゅう)』第十六章の「仰いで本地を(たづ)ぬれば、四十八願の法王なり」を引用しています。ここでは高祖善導大師の本地を考えたならば、それは阿弥陀仏です、という意味を表現しています。

 ()して / つつしんで。ひれ伏して。

 (すい)(じゃく) / 仏・菩薩が衆生を救うため、仮の姿で現れること。またその仮の姿。

 (とぶら)えば / 探し求めたならば。

 (せん)(じゅ)(ねん)(ぶつ) / 専ら阿弥陀仏に対する念仏を修すること。

 ()() / 破れた衣。

 ()() / サンスクリット語「ビクシュ」の音訳。意味は「乞う人」「乞食者」ということから、のちに「托鉢する修行者」「出家した修行者」のことを指します。

 ()して(すい)(じゃく)(とぶら)えば (せん)(じゅ)(ねん)(ぶつ)()()()() / 法然上人の著書『選択本願念仏集』第十六章の、「()して垂迹を(とぶら)えば、専修念仏の(どう)()なり」を引用しています。ここでは、ひれ伏して阿弥陀仏が現れた仮の姿を探し求めたならば、破れた衣を着た専修念仏の修行者、つまり善導大師のことです、という意味を表現していま

2番

 ()(そん) / サンスクリット語「バガヴァット」の意訳で、「福徳ある者」「聖なる者」を言います。「仏」の称号の一つ。ここでは(しゃ)()()()()(そん)を指します。

 (しん)() / ほんとうの意味。

 ()() / 「弥陀」は「阿弥陀仏」「阿弥陀如来」のこと。

 ()() / かねてからの思い。前々からの意向。本来の意志。

 ()()()() / 阿弥陀仏の本来の意志。法然上人の著書『選択本願念仏集』にある、  平基親の序文の一節、「弥陀素意の願」を引用しています。

 (かん)(ぎょう)(しょ) / 善導大師の著書の一つ。『(かん)()(りょう)寿(じゅ)(きょう)(しょ)』が正式名。『(かん)()(りょう)寿(じゅ)(きょう)』の注釈書。四巻からなる。

 (れい)(ずい) / 尊く不思議なめでたいしるし。法然上人の著書『選択本願念仏集』第十六章には、「『観経』の(もん)(しょ)(じょう)(ろく)するの(とき)、すこぶる(りょう)(ずい)を感じ、しばしば(しょう)()(あずか)れり」とあります。

 (にょ)(らい) / サンスクリット語「タターガタ」の意訳。悟りの世界から救いのため衆生の世界へ来られた方。仏の称号のひとつ。

 (じき)(じゅ) / 直接に授けられること。

 (にょ)(らい)(じき)(じゅ) / ここでは、阿弥陀仏から直接に授けられること。法然上人の著書『選択 本願念仏集』第十六章の、「(まい)()()(ちゅう)に僧()って(げん)()()(じゅ)す。僧は恐らくはこれ弥陀の(おう)(げん)ならん」を引用しています。

3番

 いましめ / 教えさとすこと。訓戒。

 (じょう)(ごう) / 清浄な行為。清浄業ともいう。とくに念仏して浄土に往生しようと願うことをいいいます

 (かた)(すがた)(しめ)したる / 念仏信者のいろいろな困難の様子をお示しになられた、という意味。次の言葉の「二河白道の譬」を形容しています。善導大師の著書『観経疏』「(さん)(ぜん)()」第四には、「(ぎょう)(じゃ)のために一つの()()()いて(しん)(じん)(しゅ)()して、()って()(じゃ)()(けん)(なん)(ふせ)がん。」と記されて、次に「二河白道の譬」が続きます。

 ()()(びゃく)(どう)(たとえ) / 善導大師の著書『観経疏』「(さん)(ぜん)()」第四に説かれた、念仏信者の進むべき道を示す譬喩。「二河」とは「水の河」と「火の河」。「白道」とは二河の間の白い道。「水の河」は衆生の(とん)(よく)(あい)(よく)の譬え、「火の河」は衆生の(いか)(にく)しみの譬え、「白道」は衆生の往生を願う心の譬え。「二河白道の譬」の文にはそのほか多くの譬えが示されています。

 永遠(とわ)()ちせぬ(おし)えなれ / 永遠に朽ち果てて、滅びることのない教えです。

4番

 ()(くず)(はら) / 京都東山の地名。今の円山公園周辺を言う。善導大師と法然上人が夢中で対面された所と言われています。『(ほう)(ねん)(しょう)(にん)(ぎょう)(じょう)()()』第七巻に二祖対面の模様が記述されていますが、地名は特に記されていません。のちに「真葛が原」と言い伝えられたと考えられます。

 (はん)(こん)(じき)()(げん)じ / 善導大師は、法然上人の夢の中で、お体が半分金色をされた姿を(あらわ)されました。『法然上人行状絵図』第七巻には、「そのさま腰より下は金色にして、こしよりかみは(すみ)(ぞめ)なり」と記されています。

 ()()(たい)(めん) / 善導大師が法然上人の夢中に現れ、「(なんじ)専修念仏をひろむこと(とうと)がゆへにきたれるなり」と告げられました。

 證誠(しるし) / (しょう)(じょう)」を「しるし」と表現しています。「證誠」は真実であると証明すること。「しるし」とは証拠となるもの、形となって表れるものを言います。二祖対面されたことが、善導大師の専修念仏の教えを正しく受け継いだことの証明、しるしとなっていることを表現しています。

 ()しき / 不思議な。

 (ちぎ)り / 縁。前世からの因縁。宿縁。

5番

 (へん)()(どう)() / 「偏依善導」のこと。法然上人の念仏の教えは偏に善導大師に依るという意味。法然上人の著書『選択本願念仏集』第十六章には、「善導()(しょう)(ひとえ)に浄土を(もっ)(しゅう)()、しかも(しょう)(どう)(もっ)(しゅう)()(ゆえ)に偏に善導(いつ)()に依るなり。」とあります。

 (いずみ) / 物事の生じてくるもと。源泉。ここでは善導大師の教えを指します。

 (よし)(みず) / 法然上人の草庵のあった東山のほとりの湧水から転じて念仏の教えの本拠、あるいは法然上人住居の代名詞などとして使われます。ここでは法然上人の教えのこと。

 ()()く / 「展」は本来「のべる」「ひらく」意味。ここでは、「展開」する意味で「あく」と、ふりがなをしています。

 (すえ)(たの)もしき / 「末」はここでは将来・未来のこと、「頼もしき」とはここでは、まかせて安心である、憂いがないことを表現しています。

6番

 (こう)() / 一宗一派を開いた僧の尊称。浄土宗では法然上人を宗祖と呼ぶのに対し、善導大師を高祖と尊称します。

 (あと)(しの)ぶ / (ぎょう)(せき)()()すること。

 (たれ)か / 文法上、連語と呼ばれる品詞。不特定の人を指していう言葉。

 (ねん)(ぶつ) / 仏様、特に阿弥陀仏の()()をお唱えすること。

  (わす)めや / 動詞「忘れ」の未然形「忘れ」に推量の助動詞「む」の已然形「め」と反語の係助詞「や」がついて、「忘れるだろうか、いや忘れはしない」という意味になります。

 ()()()()()(ぶつ) / 「南無」は「お願いします」。「阿弥陀仏」は仏様のお名前。「どうか阿弥陀様、お救い下さい、お願いします」という意味。


(以上・文責・加藤良光・令和2119日更新)