平成15年度浄土宗総合学術大会紀要/佛教論叢第47号に掲載
目次
現在の浄土宗において、宗紋は次のように規定されている。
すなわち「浄土宗宗網」第一章第十条に
第十条 本宗の紋章を宗紋という。
2 宗紋は、月影杏葉ぎょようとする。蕊は、七個とし、図式を次のとおり定める。
[1]浄土宗宗務庁『浄土宗宗門法制類纂』平成10年再販・102頁とあり、これ以上の細則はない。
ところが、財団法人浄土宗報恩明照会発行の「浄土寳暦」には
浄土宗の宗紋は、左のような「月影杏葉つきかげぎょよう」七蕊(しん)[2]「七蕊(しん)」と「蕊」にふりがなを付しているが「蕊(ずい)」の間違いである。です。
この杏葉は、宗祖法然上人の生家の漆間家の紋に由来し、大正4年(1915)に宗歌「月影」の月を配した現在の紋が定められました。[3]財団法人浄土宗報恩明照会『浄土寳暦』平成14年度版・5頁
とあり、また浄土宗出版室編集の「浄土宗のしおり」には
法然上人がお生まれになった漆間家の紋杏葉に、宗歌・月かげの月を配したものです。[4]浄土出版室『浄土宗のしおり』平成12年第2版・13頁
とあり、宗綱の規定以上の記述がされている。
さらに、浄土宗の寺院においては仏具・法衣等に宗紋類似の図柄が存在し、筆者は「宗紋の現状は混乱している」と考える。そこで浄土宗宗紋の問題点として、次の項目を提示する。
すなわち
1.図柄
宗紋として扱われている図柄について考察する。筆者の調べによれば8種類存在する。
2.呼称
宗紋としての呼称を考察する。「浄土宗宗綱」の「月影杏葉ぎょよう」、「浄土寳暦」の「月影杏葉つきかげぎょよう」の表記方法の違い、さらに、「ぎょよう」の読みの他に「ぎょうよう」「きょうよう」という読み方もある。紋章学上は「ぎょうよう」の読みが一般的である。
本稿において紋章として扱う場合「ぎょうよう」と読むこととする。[5]小学館『日本国語大辞典第2版』第4巻2001年・499頁
3.由来
「杏葉ぎょうよう紋」が法然上人の生家、漆間家の家紋であるという根拠は何か。「月影」を合成したのは宗歌月影に依るとあるが、宗紋が制定された当時、「月影」の歌は浄土宗の宗歌として規定されていないという問題がある。
4.法政史
浄土宗の歴史において宗紋がどのように規定され、また改正されたのか確認すべきと考える。
の4点である。本稿では、1の「図柄」について考察する。
まず始めに、浄土宗として最初に宗紋が規定された大正4年の教令を見ることとする。
そこには
◇教令宗紋規定
大正四年十月八日教令第二十九號ヲ以テ制定第一條 本宗ノ紋章ヲ左ノ如ク定ム月影ぎよえふト稱ス
但黄燐及蕋ハ各七個トス[6]教學週報社『浄土宗宗制規類纂』昭和5年版・93頁
とあり、
ⅰ.「素描き」の図柄
ⅱ.呼称
ⅲ.但し書き
が示されている。ここに浄土宗宗紋の基本図式が規定されていると考えられるので詳しく検討することとする。
「素描き」の図柄は紋章学上の「月輪に抱き花杏葉紋」である。
まず紋の描き方には4種類がある。[7] … Continue reading
紋の描き方
三つの描法
(前略)
その円の中に紋を描くとき、三つの描法があります。その一は、線だけで形を描く蕊描き、あるいは素描きともいい、昔の紋帳や武鑑のほとんどはこの描法によっています。
その二は、地抜きという描き方です。これは白地の旗や幕に紋を描くときに用いられます。提灯も白張りですからこの描法で紋が入れられます。また、衣服でも、夏物の麻の白地にも地抜き紋が使われます。
その三は、染紋で衣服につけられる一般的な描法です。色無地や小文地に白く紋が浮き上がり、見た目に美しい描法です。
(泡坂妻夫著『家紋の話-上絵師が語る紋章の美-』新潮選書(1999年)174・175頁より)
(※上記は「三つの描法」とあるが筆者はこれに「白黒境界線描き」を追加した。)
「素描き」「白黒境界線描き」「黒地に白」「白地に黒」の面描きを想像する手段であり、「白黒境界線描き」は面描きにする前段階である。「杏葉(ぎょうよう(紋」は「杏(あんず)」の「葉(は)」を象(かたど)ったものではない。大正15年、沼田頼輔氏は『日本紋章学』のなかで
杏葉は初め馬の装飾としてこれを用ゐしも、後には胴丸の附属品としても、亦これを用ゐたり。
而して杏葉紋はこれに象れるものなり。[8]沼田頼輔著『日本紋章學』明治書院大正15年・946頁
と述べられている。また、有職故実の中において、馬飾りの一種として「唐鞍からくら」という様式があり、その際の胸飾り、尻飾りを「杏葉ぎょうよう」と呼んだ。
(鈴木敬三編『有職故実大辞典』吉川弘文館(1998年)166・167頁より)
「杏葉(ぎょうよう)」は革や金属で作られ「木の葉(このは)」状の面であった。[9]鈴木敬三編『有職故実大辞典』吉川弘文館平成10年・166~168頁
そこへ種々の文様が描かれ、特に葉を重ね合わせた文様を「杏葉ぎょうよう紋」と呼ぶようになった。[10]毎日新聞社『重要文化財26工芸品III』和52年・98頁「古神宝類・熊野速玉大社(和歌山)」を参照。
「杏葉(ぎょうよう)紋」は「茗荷(みょうが)紋」と混同されるが、「茗荷(みょうが)紋」の葉は1枚の中に、1点結合した3本の葉脈が描かれている。「杏葉(ぎょうよう)紋」にはそれがない。
次に「抱き杏葉(だきぎょうよう)」とは、一対の紋様を抱き合わせた形を「抱き」と呼ぶ。「抱き杏葉(だきぎょうよう)」「抱き茗荷(だきみょうが)」などという。そして、「抱き花杏葉(だきはなぎょうよう)」とは、「杏葉(ぎょうよう)」の中に「蕊(しべ)」を描く形である。
本数は元来決まっていない。上絵師(うわえし)により数が異なる。また、「月輪(つきわ)」とは、丸輪(まるわ)、太輪(ふとわ)、細輪(ほそわ)、雪輪(ゆきわ)、菊輪(きくわ)などと同じく、紋章合成法として輪で紋を囲む方法のひとつで、三日月を描いて紋を囲む形を言う。[11] … Continue reading
月輪・いろいろな丸
A~D:沼田頼輔著『日本紋章學』明治書院(1926年)68・69頁
E~I:千鹿野茂著『日本家紋総監』角川書店(1993年)10・11頁
豆
丸の中の紋を思い切って小さくしてしまうのも目立たなくする工夫の一つです。このときも丸は細輪が適しています。星の紋では細い月輪を使っています。
泡坂妻夫著『家紋の話-上絵師が語る紋章の美-』新潮選書(1999年)256・257頁
このような構成で「素描き」の図柄は、「月輪に抱き花杏葉(つきわにだきはなぎょうよう)紋」である
つぎに、「月影(ぎよえふ)」という呼称は、「徳川葵(とくがわあおい)」が「丸に三つ葵(あおい)」を指すように、類似の紋章と区別するため家名などを冠して図柄を特定した形式に倣い、数種ある「杏葉(ぎょうよう)紋」の中で「月輪に抱き花杏葉(つきわにだきはなぎょうよう)紋」を「月影(ぎよえふ)」と称することに規定したものであり、「月影」が「月輪(つきわ)」の図を指し、「ぎよえふ」が「抱き花杏葉(だきはなぎょうよう)」の図を指すことにはならない。
そして、但し書きの「黄燐及蕋ハ各七個トス」は何を指すのか。「黄燐」とは国語辞典、植物図鑑に記載されていない言葉である。
類似の語として「黄燐おうりんマッチ」[12]小学館『日本国語大辞典第二版』第2巻2001年・885頁「鱗片葉りんぺんよう」[13]小学館『日本国語大辞典第二版』第13巻2002年・1008頁。清水建美著『図説植物用語辞典』2001年144頁があり、また、「杏葉(ぎょうよう)紋」と類似する「茗荷(みょうが)紋」の花が上部に位置することから、下部から数えて7枚の葉状面(蕊(しべ)の部分は左右2枚・上部2面は茗荷紋と同じように見立てて花2弁と解釈)を「黄燐」と造語したと考えられる。
小学館『日本国語大辞典』第2版・第2巻(2001年)885頁より
小学館『日本国語大辞典』第2版・第13巻(2001年)1008頁より
清水健美著『図説植物用語辞典』(2001年)144頁より
「蕋」は紋章学上「梅(うめ)紋」「桜(さくら)紋」に見られる花の「雄(お)しべ」の形である。そして、その先端の「葯(やく)」の部分は、黒く塗りつぶされていて、現在の「浄土宗宗綱」の図柄が輪形であるのと異なる。「黄燐(おうりん)」「蕋(しべ)」が各7個と規定しているのは、「黄燐(おうりん)」の枚数が5枚、9枚、11枚の場合、「蕋(しべ)」の本数が5本、9本、11本の場合を防ぐ意味であったと考えられ、「黄燐(おうりん)」「蕋(しべ)」の両者に共通する数量呼称として「個」を用いたのであり、現在の「浄土宗宗綱」の「蕊は、七個とし、」という表現は適切ではない。
このように大正7年教令の図柄を確認した。
それでは、つぎに、現在宗紋として扱われている8種類の図柄をここに示す。
M、「抱き茗荷(だきみょうが)紋」(参考として掲載)
A、「抱き杏葉(だきぎょうよう)紋」
B、「抱き花杏葉(だきはなぎょうよう)紋」
C、「地抜き蕊抱き花杏葉(じぬきしべだきはなぎょうよう)紋」
D、「枝付き葉脈抱き花杏葉(えだつきようみゃくだきはなぎょうよう)紋」
E、「枝付き葉脈地抜き蕊花杏葉(えだつきようみゃくじぬきしべはなぎょうよう)紋」
F、「月輪に抱き花杏葉(つきわにだきはなぎょうよう)紋」
G、「月輪に地抜き蕊抱き花杏葉(つきわにじぬきしべだきはなぎょうよう)紋」
H、「月輪に輪葯蕊抱き花杏葉(つきわにわやくしべだきはなぎょうよう)紋」
なお、「地抜き蕊(じぬきしべ)」「枝付き葉脈(えだつきようみゃく)」「輪葯蕊(わやくしべ)」は筆者の造語である。
以下順次に詳説する。
Mの1 | Mの2 | Mの3 | Mの4 |
素描き | 白黒境界線描き | 黒地に白 | 白地に黒 |
一対の杏葉が抱き合う形で、杏葉紋の基本形である
Aの1 | Aの2 | Aの3 | Aの4 |
素描き | 白黒境界線描き | 黒地に白 | 白地に黒 |
「黄燐(おうりん)」と呼ばれる7枚葉の下部から1、2枚と3、4枚の中央に「蕊」を描いたもので、面描きの場合、「黄燐」の面の色と「蕊」の色は反転する。つまり「黒地に白」では「黄燐」は白色、「蕊」は黒色となる。
Bの1 | Bの2 | Bの3 | Bの4 |
素描き | 白黒境界線描き | 黒地に白 | 白地に黒 |
前B図の「抱き花杏葉紋」の「蕊」の部分を地抜きする。そのため面描きの場合、「黄燐」の面の色と「蕊」の色は同色となる。
それゆえ「素描き」では「蕊」の周りに扇形の円弧を描かなければならない。そして「白黒境界線描き」では、B図とC図は、「蕊」の部分で明らかに異なる。
Cの1 | Cの2 | Cの3 | Cの4 |
素描き | 白黒境界線描き | 黒地に白 | 白地に黒 |
「枝付き葉脈」とは2列の黄燐の中央に1本の枝が貫いており、黄燐の1枚毎に1本の葉脈があることから、筆者が造語した。前3図と枝、葉脈の点で異なる。
この図は、京都紋章工芸協同組合発行の『※平安紋鑑』に掲載されている
この紋帖は「全国紋章の規画統一せる最高基準紋鑑」として昭和11年に初版発行され平成12年に第11版が発行され現在に至っている。
※平安紋鑑
A | B | C | D | E |
漆間家抱杏葉 | 浄土宗京都知恩院 | 同百万遍知恩寺 | 浄土宗抱き花杏葉 | 浄土宗抱き花杏葉 |
A 京都紋章工芸協同組合著『平安紋鑑』第11版(平成12/2000年)162頁
B・C 京都紋章工芸協同組合著『平安紋鑑』第11版(平成12/2000年)197頁
D 丹羽基二著『家紋大図鑑』第18版(平成11/1999年)243頁
E 本田總一郎監修『新修家紋大全』第26版(2001年)232頁
その中でこの図は「漆間家抱杏葉」「浄土宗京都知恩院」「同百万遍知恩寺」の紋と表示とされており[14]京都紋章工芸協同組合著『平安紋鑑』平成12年第11版162頁。同197頁。頁、これを受けて各種の家紋の本には、この図を「浄土宗抱き花杏葉」と呼称している。[15]丹羽基二著『家紋大図鑑』秋田書店平成11年第18版243頁。本田總一郎監修『新集家紋大全』梧桐書院2001年第26版232頁。
この図は前D図の蕊の部分が地抜きになっている。地抜き蕊の点でC図と共通する。
Eの1 | Eの2 | Eの3 | Eの4 |
素描き | 白黒境界線描き | 黒地に白 | 白地に黒 |
大正4年教令第29号の図であり、浄土宗宗紋の本来の図柄である。
昭和37年「※浄土宗宗綱」が制定された際、宗紋の規定はなかった。
Fの1 | Fの2 | Fの3 | Fの4 |
素描き | 白黒境界線描き | 黒地に白 | 白地に黒 |
[16]浄土宗『宗報』昭和37年7月号26~29頁 昭和41年3月第9次宗議会において宗紋についての質問がなされ、※宗務当局の答弁があった。[17]浄土宗『宗報』昭和41年9月号26~28頁
昭和44年7月第14次宗議会において「浄土宗宗綱」改正案が可決され、同年12月の『宗報』に改正された「※浄土宗宗綱」が掲載された。[18]浄土宗『宗報』昭和44年12月号12頁
その時の宗紋の図柄はこのF図である。また『宗報』平成13年1月号の「浄土宗二十一世紀劈頭宣言」のバックの宗紋の図はこのF図の「白黒境界線描き」である。[19]浄土宗『宗報』平成13年1月号2頁
また、平成12年宗令第88号「浄土宗の宗旗を定める件」の図はこのF図の「白地に黒」の図である。[20]浄土宗『宗報』平成13年1月号13頁
この図は前F図の蕊の部分が地抜きになっている。地抜き蕊の点でC図E図と共通する。
Gの1 | Gの2 | Gの3 | Gの4 |
素描き | 白黒境界線描き | 黒地に白 | 白地に黒 |
この図はF図と一点で異なる。すなわち、「蕊」の先端の「葯」の部分である。F図では黒く塗りつぶしてあるが、この図では輪の形である。昭和45年4月、浄土宗宗務庁は追録加除可能な『浄土宗初規程類纂』を発行した。
その際掲載されたのがこの図(左図)である。[21]『浄土宗諸規程類纂』昭和45年1~2頁
4カ月前『宗報』に掲載された図と異なるのである。但し「蕊」の「花糸かし」の部分が一部で二重線になっている。作図者が、F図の「白黒境界線描き」を意識したものと思われる。平成5年9月、浄土宗宗務庁は新たに『浄土宗宗門法制類纂』を発行した。
この際「花糸」の部分は完全な一本線になった(左図)。[22]『浄土宗宗門法制類纂』平成5年102頁
平成12年宗令第88号「浄土宗の宗旗を定める件」が公布され、『宗報』平成13年1月号に掲載されたのは、F図の「白地に黒」であったが、『宗報』平成13年4月号裏表紙に広告された宗旗の写真はこの図の「白地に黒」であり[23]浄土宗『宗報』平成13年4月号裏表紙、実際の宗旗もそうである。宗旗は宗令で定めた図と異なるのである。
Hの1 | Hの2 | Hの3 | Hの4 |
素描き | 白黒境界線描き | 黒地に白 | 白地に黒 |
以上、現在宗教として扱われている8種類の図柄を説明し混乱の現状を示した。そこで、その原因を考察する。
その手がかりとして、8種類の図柄に見出される5点の要素を確認したい。すなわち
である。以下に順次概説する。
大正4年、浄土宗宗紋として「月輪に抱き花杏葉つきわにだきはなぎょうよう紋」が、「月影ぎよえふ」と呼称されて制定された。これにより「月輪」有りの図と、「月輪」無しの図ができた。
家紋としての「杏葉紋」には本来「蕊」はなく、「蕊」を描き加えた図を「花杏葉紋」と称して区別した。
本来「花杏葉紋」内に存在したと思われる「地抜き蕊」の形式が「枝付き葉脈」「月輪」においても見られた。
「杏葉紋」の一種「枝付き葉脈抱き花杏葉えだつきようみゃくだきはなぎょうよう紋」が『平安紋鑑』により、「浄土宗京都知恩院」の紋であるとして掲載されたことにより、宗紋であると誤解された。
昭和44年「浄土宗宗綱」が改正され、宗紋の図柄が『宗報』に掲載された。翌年『浄土宗諸規程類纂』発行の際、『宗報』掲載図と異なる「輪葯蕊」の図柄が掲載され、現在に至っている。
以上の要素が合成されて、8種類の図柄が存在することとなり、混乱の原因であると考える。
※浄土宗宗綱
(名称)
第一条
この宗派は、「浄土宗」という。
第二条
この宗派は、法然上人の開示にしたがい、その教を信ずるものをもって組織する。従ってこの宗派は、その教旨を守る個人、寺院、教会その他の団体を包括する。(教旨及び目的)
第三条
(伝燈)
第四条
この宗派は、教主釈迦牟尼仏、高祖善導大師及び宗祖法然上人以下列祖の法脈を受け、伝宗伝戒により次第にこれを相承する。(本尊)
第五条
この宗派の本尊は、阿弥陀如来とする。(聖典)
第六条
この宗派の所依の教典は、仏説無量寿経(曹魏康僧鎧訳)仏説観無量寿経(劉宋●良耶舎訳)仏説阿弥陀経(姚秦鳩摩羅什訳)の三経とし、その正意の解明は、天親菩薩の無量寿経優婆提舎願生偈、善導大師の観無量寿経疏及び法然上人の選択本願念仏集による。
※●は彊から弓を引いた字(祖山及び門主)
第七条
(大本山及び法主)
第八条
(寺院及び教会)
第9条
(僧侶、法類及び寺族)
第十条
法類は、寺院及び教会又は住職及び主任と砲煙関係にあるもののうちから、住職及び主任が選定し、宗務庁に備える法類台帳に登録された教師をいう。—–後略—–
稲岡議長
4番。
4番(三宅春議員)
私はむずかしいことは存じませんので、平易で具体的な質問をいたします。
宗紋でございますが、先般佐賀教区の指定巡教にまいりましたときに、ある紋章の研究家がお寺に御参詣になりました折りに、「浄土宗の紋は一体何ですか」ということを聞かれましたので、ちょうど私はこの袈裟をかけておった関係上、「月影に杏葉だと聞いておりますが…」その人よほど紋章の研究に熱心な方と見えまして、「いや、あなたの月影の中のものは、それは杏葉ではありません。杏葉は、これは植物性のものでなくして、動物的なものを表現したのが杏葉です」こうゆうことをおっしゃったので私の持っているいろいろな百科辞典で紋章のところをくってみますれども、抱茗荷は出てくるけれども、どうしても杏葉という紋章に出合わなかったわけであります。 いま皆様方のお袈裟を拝見いたしておりますというと、実に区々まちまちであります。この金屏風の裏を眺めても、葵の紋章と、向うの屏風にもあるように、単なる抱茗荷であります。ところが我々宗会議員のお袈裟やら、あるいは宗務要路者の紋章は、月影に抱茗荷の形に皆なっておるようでございますが、一体これは宗綱の中に、いやしくも浄土宗のシンボルとするところの紋章というものを、なぜに月影に抱茗荷なら抱茗荷だというような、そうした制定がなかったか。また今後それを明らかに明示する必要がないのか、どうかということ。でないというと、各寺院の幕を見ましても、実に区々まちまちであります。小笠原議員の浄土宗儀の乱雑ということも何ですけれども、この一宗の紋所が乱雑ということも、私は他宗に対しても非常に恥多いことだと思うのであります。(以下略)
稲岡議長
番外
中島総務局長
三宅議員にお答えいたします。大変熱烈なる御意見の御発表で、何か亡き千々和宝天君を思い出したような気がいたします。
第一番目に宗紋のことにつきまして、大変結構な御意見でございますが、戦争前にありました宗規には、ちゃんとした紋が書いてあったことを私は記憶しておるのでございますが、今度の宗規にはそれはございませんが、これはよくまたその機関にはかりまして、しかるべく取りはからいいたします。大変結構なことでございます。(中略)
袈裟の統一というようなことは、これもまた私、この間東西本願寺なんかに行ってまいりますと、みんな揃いの袈裟をやっておりますことは大変いいことでこちらの方はまちまちであり、こういうようなものでありまするようなことで、少々まちまちのような感じがいたしましたが、こういうことも800年の仕事の中に加わることであろうと思います。
第一章 総則
(名称)
第一条
この宗派は、「浄土宗」(以下「本宗」という。)という。
第二条
本宗は、法然上人の開宗にもとづき、その教旨を信ずる個人、寺院、教会その他の団体をもって組織する。(教旨及び目的)
第三条
(伝統)
第四条
本宗の伝統は、教主釈迦牟尼仏、高祖善導大師及び宗祖法然上人以下列祖の法脈を受け、伝宗伝戒によりこれを相承する。(本尊)
第五条
本宗の本尊は、阿弥陀仏とする。(聖典)
第六条
本宗所依の教典は、仏説無量寿経(曹魏天竺三蔵康僧鎧訳)仏説観無量寿経(宋元嘉中●良耶舎訳)仏説阿弥陀経(姚秦三蔵法師鳩摩羅什奉詔訳)の三経とし、その正意の解明は、天親菩薩の無量寿経優婆提舎願生偈、善導大師の観無量寿経疏及び法然上人の選択本願念仏集による。
※●は彊から弓を引いた字(宗歌)
第七条本宗の宗歌は、法然上人御作の和歌
月影のいたらぬ里はなけれども
ながむる人のこころにぞすむとする。(宗紋)
第八条
本宗の紋章を宗紋という。宗紋は、月影ぎょよう(杏葉)とする。蕊は七個とし、図式を左のとおり定める。
—–以下略—–
脚注[+]
↑1 | 浄土宗宗務庁『浄土宗宗門法制類纂』平成10年再販・102頁 |
---|---|
↑2 | 「七蕊(しん)」と「蕊」にふりがなを付しているが「蕊(ずい)」の間違いである。 |
↑3 | 財団法人浄土宗報恩明照会『浄土寳暦』平成14年度版・5頁 |
↑4 | 浄土出版室『浄土宗のしおり』平成12年第2版・13頁 |
↑5 | 小学館『日本国語大辞典第2版』第4巻2001年・499頁 |
↑6 | 教學週報社『浄土宗宗制規類纂』昭和5年版・93頁 |
↑7 | 泡坂妻夫著『家紋の話-上絵師が語る紋章の美-』新潮選書1999年・174頁には「三つの描法」とあるが筆者はこれに「白黒境界線描き」を追加した。 |
↑8 | 沼田頼輔著『日本紋章學』明治書院大正15年・946頁 |
↑9 | 鈴木敬三編『有職故実大辞典』吉川弘文館平成10年・166~168頁 |
↑10 | 毎日新聞社『重要文化財26工芸品III』和52年・98頁「古神宝類・熊野速玉大社(和歌山)」を参照。 |
↑11 | 沼田頼輔著『日本紋章學』明治書院大正15年・64~70頁を参照。千鹿野茂著『日本家紋総鑑』角川書店平成5年・10~11頁を参照。泡坂妻夫著『家紋の話-上絵師が語る紋章の美-』新潮選書1999年・256・257頁を参照。 |
↑12 | 小学館『日本国語大辞典第二版』第2巻2001年・885頁 |
↑13 | 小学館『日本国語大辞典第二版』第13巻2002年・1008頁。清水建美著『図説植物用語辞典』2001年144頁 |
↑14 | 京都紋章工芸協同組合著『平安紋鑑』平成12年第11版162頁。同197頁。頁 |
↑15 | 丹羽基二著『家紋大図鑑』秋田書店平成11年第18版243頁。本田總一郎監修『新集家紋大全』梧桐書院2001年第26版232頁。 |
↑16 | 浄土宗『宗報』昭和37年7月号26~29頁 |
↑17 | 浄土宗『宗報』昭和41年9月号26~28頁 |
↑18 | 浄土宗『宗報』昭和44年12月号12頁 |
↑19 | 浄土宗『宗報』平成13年1月号2頁 |
↑20 | 浄土宗『宗報』平成13年1月号13頁 |
↑21 | 『浄土宗諸規程類纂』昭和45年1~2頁 |
↑22 | 『浄土宗宗門法制類纂』平成5年102頁 |
↑23 | 浄土宗『宗報』平成13年4月号裏表紙 |