平成19年浄土宗東海地方教化センター/神仏分離と廃仏毀釈掲載
目次
「ええじゃないか」とは慶応3年(1867)の夏から翌年の春にかけて、寺社の御札が空から降り、御札を奉納したり祭壇を設けて祀り、神酒供物を供え、男装女装をし、「ええじゃないか」などの囃子声をかけて踊りあった事象である。残された記録には「御札降り」「おかげ」と呼ばれた地域もあり、全体を「ええじゃないか」と統一して呼んだのは昭和6年の土屋喬雄氏の論文からである。
「ええじゃないか」の発端は当初名古屋説、見付(現静岡県磐田市)説、御油(現愛知県豊川市)説などがあったが、昭和52年(1977)佐々木潤之介氏の『幕末の社会情勢と世直し』において、三河吉田宿(現在の豊橋市)の記録に7月22日以前に御札降りがあったことが紹介された。
それは、羽田八幡宮の神官羽田野敬雄はたのたかおの「萬歳書留控」の記述に、
此程近辺、草間、牟呂、野田新田、萱町などへ伊勢之御祓降下し
と、あることによる。
そして牟呂八幡宮(写真)の宮司森田光尋の『留記』に、7月14日牟呂村に御札降りがあったことが昭和59年(1984)、橘敏夫氏により指摘され、昭和61年(1986)渡辺和敏氏により史料が紹介された。
ついで、昭和62年(1987)田村貞雄氏の著書『ええじゃないか始まる』において詳述され、同年豊橋市の愛知大学で「ええじゃないか」東海シンポジウムが開催されて、牟呂村発端説が認められることとなった。
それでは「ええじゃないか」の発端とされる牟呂村においては、どのような様子であったのか、森田光尋の『留記』をみてみよう。『留記』の表紙には、
明和四年亥四月
御鍬社 光成代
文政十三年寅八月
大神宮御祓納 おがけ(ママ) 光義代
慶応三年卯七月
大神宮御祓納
御鍬御祓納 留記
とある。次頁より明和4年のこと、文政13年のことが記され、次に慶応3年の記述がある。
慶応3年の記述は「本編」と「附録」とに分かれる。「本編」には日時を追って行われたことが記され、「附録」には「神異」と「牟呂之神異 此近辺ニ而御札之降始也」と題された二部が付されている。
「本編」の最初は、
慶応三年卯七月十四日七ツ時分、大西村多治郎屋敷東竹垣際、笹之うらに外宮之御祓降臨之よし、大西村より申来ル、十七日晩天王社拝殿ニ納め奉る、神酒弐樽大西村に而求、若者其夜ハ宮ごもり也、此初穂として金百疋受納致ス、おのれ・忰と両人行き執行致ス、翌朝又々拝礼として神酒献し拝ス、三日正月也、尤大西計也
と書き出され、以後11月3日まで約40件の降札につき、日時・場所・御札の種類・御札の納め方・神酒の量・供え物の内容・参詣者・参詣の衣装・手おどりの評価などが記されている。
「附録」の「神異」は牟呂以外における異変について8件記されている。そして「牟呂之神異 此近辺ニ而御札之降始也」と題された文章は今回の発端について記している。要約をすれば、
7月14日朝、外宮の御祓が多治郎屋敷に降ったのを富吉が見つけ、組頭清治郎の所へ持って行く。この御祓を二人は疑う。文政のときに降った御祓には御師の名がなかったのに今度のには御師の名が書いてあると。富吉は御祓を清治郎に預けて帰宅する。その夜、富吉の8歳の男子が病なくして急死する。
『留記』は、
されど神罰とはおもはさりけり
と記す。
同じ日の夕暮れ、シコ名をトコナベという者が、伊勢の御祓が降ったといって騒いでいるが、おおかた煤びたものであろうと疑った。彼の妻は13日よりおこりを煩い、15日の夜死ぬ。『留記』は、
此ふしぎにおとろき、其のあたりのものども、こハ神のなし給う所也、富吉も此のものも両人共にいたくうたがひしために、かゝる神罰のありし也、此の二人ハもとより信心のなきものにて、心よからぬものなり、おそるべし、つゝしむへし、かならすうたかふべからず、(中略)十六日の朝より、とやかくやと皆々の口々あやしかりおそれをなし、此ころ近村にて御鍬祭といふこと流行に、此牟呂計しかせさる事を、神のしるし見せてなさせ給ふなるへしなと、口々にいひさわぐ、其夜大西惣代二人、おのかもとに来て、ありつるさまかたるまにまにこゝに書置、これより祭はじまりし也、
と記す。
『留記』を記した宮司森田光尋は、村人の語るままに書いたとしているが、筆者は、
とあるのは、文体内容から考えて、村人の意見ではなく、森田光尋の意見ではないか。つまり、神罰の強調と祭礼の督促は神官側からなされたと思われる。
森田光尋が京都の上級神主に出した書簡には、降札現象を初めに「目出度」と記したが後で「不思議」と書き改めている。降札に関し彼の関与があったのだろうか。
7月14日牟呂村に降ったお札は、18日夜には吉田宿に降ったことが記録されている。『東海道吉田宿惣町御かげの次第』という刷物には各町での神酒・投餅などの施行品の様子が記されている。御札降りが牟呂村以外でも起きたのである。
御札祭りが東海道吉田宿から東西に波及し、京・大阪では「ええじゃないか」になった。波及の背景には
などの説が過去にあげられた。その他の説として田村貞雄氏は著書『ええじゃないか始まる』において、
自分(または自分たちの村)だけ流行から取り残されてしまうのではないかとする不安と焦燥感であった。(中略)
御札降りは慶祝すべきことであるとともに、何らかのたたりへの恐れを随伴していた。
と述べられて、御札降り波及の一因が不安と恐怖にあることを指摘されている。
「おかげまいり」と「ええじゃないか」との関係を指摘される研究者は多い。
しかし、前者が伊勢や秋葉への集団参拝であるのに対し、後者は、殆どが氏神への参拝祭礼にとどまった。牟呂村においても、慶応3年の御札降りは、伊勢参詣とはならなかった。不安と恐怖が解消されれば民心は落ち着いたのである。
吉田宿御札降りに関して、羽田八幡宮宮司羽田野敬雄を衷心とする動きがある。
彼は文政10年(1827)平田篤胤の門人となり、全国の同門者と交渉し、また東三河の神職と「身潔講」を組織し、既に水戸藩などで行われていた神道家の離檀、神道葬祭について資料蒐集と研究をした。
そして天保13年(1842)同門の草鹿砥宣輝が豊川妙厳寺と離檀懸合いを起こし、12年後の安政元年(1854)寺社奉行の許可が下りたのに続き、安政3年、羽田野敬雄・森田光義(森田光尋の父)ら8名が離檀届け出、翌年許可となった。東三河の神職は連携して神仏分離の動きを示している。それから10年後の慶応3年、御札降りに始まる「ええじゃないか」がおこるのである。
田村貞雄氏は『ええじゃないか始まる』において、
発端において神主層の連携があっただけではない。御札降りをめぐる数々の神異は、神の怒りと世直しの予兆を示すことによって、神社の自立を促し、神仏分離の前提条件をつくりだしたと思われる。
と述べられているが、筆者は、既に神職の離檀・神道葬が許可になっているのであるから、神仏分離は進んでいると考える。
御札降りにおける神罰への恐怖、反対に、流行に取り残される不安からの降札期待、その両面から神への従順を説き、仏よりも神の優位性を強調し、神道国教化、そして廃仏毀釈への道が「ええじゃないか」で試されたのであった。