『一枚起請文』註釈書の系統分類について

藤本淨彦教授古稀記念号/佛教大学仏教学会紀要 2015年03月25日 加藤良全

はじめに

『一枚起請文』は法然上人(1133~1212、以下敬称略)が亡くなる2日前、建暦2年正月23日に著述されたものとされ、この『一枚起請文』に対する註釈書は数多く存在する。

註釈書に関しては、既に藤堂恭俊氏が「一枚起請文註釈書一覧表[1]川龍彦『一枚起請文原本の研究』(国書刊行会 1984年5月)の附録に掲載。」を作成されているが、この一覧表は五十音順に配列されたものである。

そこで、本稿では藤堂氏の一覧表を基盤として、それらを宗派別と年代順に分類し整理を行った。(附録参照[2]この分類は藤堂稿で掲載されているものまでであり、これ以降も現在まで藤井実応『法然上人と一枚起請文 … Continue reading)宗派別の著作数を表示すれば次のようになる。

  • 浄土宗 52本
  • 浄土宗西山派 10本
  • 浄土真宗本願寺派 11本
  • 真宗大谷派 31本
  • 真宗高田派 4本
  • 真宗仏光寺派 1本
  • 天台宗 5本
  • 高野山真言宗 2本
  • 真言宗豊山派 1本
  • 不明 43本

※著者不明の註釈書と、宗派が特定できない著者を不明とした。

註釈書の数量に関して述べると、浄土宗が52本と一番多いことは法然を元祖としている浄土宗なので当然であるが、31本と多い数量で真宗大谷派の著作が存在する。特に香月院深勵(1749~1817)の『一枚起請文講義』以降1800年代において多くの註釈書が存在する。これは同時期の浄土宗と比較しても多い数と言える。さらに詳細に考察すると、真宗大谷派の講師職・擬講職の者が多数著述し、この真宗大谷派において1800年頃の註釈書は講義や講説等が多数ある。

これはその年代では、真宗大谷派の僧(特に講師職・擬講職の者)が勉学・布教のテキストとして『一枚起請文』を取り上げていたことが窺える[3] … Continue reading

全体的には、聖冏(1341~1420)の『一枚起請之註』が嚆矢であり、その後は聖冏の弟子聖聡(1366~1440)が『一枚起請見聞』を著述しただけでその後、江戸時代になってから圧倒的に数量が増加したことがわかる。執筆年代、著者の生存していた年代を考慮して時代別に分類すると、室町時代は2本、江戸時代は121本、明治時代は9本、大正以降は5本と、江戸時代が約9割をしめている。

そこで本稿では江戸時代に『一枚起請文』の註釈書がなぜ飛躍的に増加したのかということに関して検討していきたい。この註釈書の中には、ある註釈書に影響されたり、あるいは批判の為に著述されたものもある。この事を追っていき江戸時代の『一枚起請文』の捉え方や註釈書の相互関係を考察して行く。その中でも注目すべきものをいくつか取り上げる。

『一枚起請之註』『一枚起請見聞』の流布

 初めに、室町時代ではあるが江戸時代の註釈書の増加のきっかけとなる聖冏の『一枚起請之註』と聖聡の『一枚起請見聞』に関して述べる。この二本が世に広く認知されるのは龍哲(?~1676)の功績によるものである。龍哲は寛文四(1664)年に『一枚起請之註管解』を執筆し、この書物において『一枚起請之註』を詳細に解説している。この後に『一枚起請見聞』も付属してその奥書には執筆の経緯が次のように述べられている。

右了譽酉譽二師所撰ノ一枚起請鈔者余於テ二關東ニ一寫二得之ヲ一了譽ノ註ハ者世希ニ有レ之矣酉譽ノ見聞者世ニ多ク有レ之然ノモ傳寫ノ之誤不レ可二舉テ數フ一於レ是ニ聚ルコト二衆本ヲ一凡テ九部参考校正蓋恐ルレバ下家醜之發コトヲ中於外ニ上也余嘗欲レ註ント二一枚起請ヲ一乃以テ二二師ノ抄ヲ一爲二本説ト一故ニ今以二二師抄ヲ一先ツ付二之梓ニ一傳ト二於世一云

[4]『一枚起請見聞』(1664年刊)19丁表

ここでは、龍哲がかつて「一枚起請文」を註釈するにあたって、関東でなかなか手に入らない『一枚起請之註』と、手に入りやすい『一枚起請見聞』とを写すことができたが、共に誤字が多いために両本を校訂作業した、と記されている。

この龍哲の作業により、『一枚起請之註』『一枚起請見聞』の存在と、浄土宗の『一枚起請文』の理解とが広く浸透した。[5]寛文四年(1664年)の『一枚起請之註』と『一枚起請見聞』は龍哲が出版したものである。

この龍哲の作業以降、『一枚起請之註』『一枚起請見聞』解釈に対して批判や肯定する註釈書が多数執筆された。よってこの龍哲の作業こそ江戸時代の『一枚起請文』興隆のきっかけであり、註釈書増加の一端を為したといえる。

靈空『一枚起請旁觀記』に対する註釈書

 次に、天台宗の靈空(1652~1739)が『一枚起請旁觀記』を著述したことを契機として浄土宗僧が註釈書を著述している。これは先に述べた龍哲以降に起こった『一枚起請之註』『一枚起請見聞』解釈に対する批判や肯定する註釈書に関するものである。

この事に関しては、既に福原隆善氏が「霊空の『一枚起請旁觀記』の著作目的は、「了誉ナド[6]「ナド」といっているのは聖聡等のことである。」の義に対する批判を通じて、天台宗における理解を示そうとしたと見ることができる。」と述べている。[7]福原隆善「近代における『一枚起請文』研究の動向」(『浄土宗学研究』九 … Continue reading

さらに福原氏は、「霊空の『一枚起請旁觀記』が世に出るに及んで、これを浄土門の立場から批判した人に超然があり、『一枚起請釈疑』一巻、『一枚起請新記』一巻を著して霊空に対した。また次に素信があり、『一枚起請旁觀記匡解』二巻を書いて批判に対抗した。素信にはこのほか、『一枚起請旁觀記匡解略解』一巻、『一枚起請述讃』一巻があり、霊空の批判に対し、了誉聖冏などの浄土門を擁護する立場から著述している。」と述べている。

また、福原氏は敬首(1683~1748)の『一枚起請親聞●録の旧字体』も『一枚起請旁觀記』を批判しているとしている。[8]敬首の批判について福原氏は「近代における『一枚起請文』研究の動向」(『浄土宗学研究』九 … Continue reading

この他にも徳歸(寳永年中の人)の『一枚起請廢立鈔』においても『一枚起請旁觀記』を批判している。

この様に靈空の聖冏等への批判を発端として、超然・素信・敬首・徳歸が註釈書を著述しており、江戸時代における註釈書の興隆の一端を為した。

浄土宗における学僧の執筆

次に江戸時代の浄土宗の中でも著名な学僧が多数執筆している。すなわち、忍澂(1645~1711)・関通(1696~1770)・貞極(1677~1756)・義山(1648~1717)・法洲(1765~1835)等が挙げられる。これらの著名な諸師が『一枚起請文』を註釈した理由を探る。

先ず、忍澂は『吉水起請諺論』を執筆しているが、その経緯が『獅谷白蓮社忍和尚行業記』(巻下)、に次のように述べられている。

勢州蓮華溪。梅香寺。寅載上人。(中略)一日。寄二師書一曰。宗祖大師。終焉誓書。世謂一枚起請是也。辭約義深古今爲二此解一者。已五六家學者未安其説。師胡不爲之解。發揮吉水之正意。振起宗門之眞風耶。敢請通解。師屡固辭。上人疊レ書。懇請不輟。師感二其篤誠一。遂述吉水遺誓諺論一卷[9]『浄土宗全書』十八巻 34頁

ここでは、伊勢蓮華谷寅載が当時『一枚起請文』の正統な解釈が定まっていないとして、忍澂に『一枚起請文』の通解を請い、それに応じて忍澂が『吉水起請諺論』を執筆したと述べられている。

次に義山の著書『一枚起請辧述』に関しては一日目の講録の最後を締めくくって、記録した者は次のように述べている。

上來は俗化講終正德元卯天七月十日京に於て義山和尚講之一二日にして終也[10]『浄土宗全書』九巻 130頁

また二日目の講録においても次のように述べられている。

凡そこの一紙の趣き上人の御素意只是れ末世の邪義を防かんかために如レ是示し給ふ也[11]『浄土宗全書』九巻 131頁

今時はこの理に背きて種種に妄説を巧み邪見を傳ふその説紛紛として巷に滿つ願くは早く止レ邪可レ勵レ正也[12]『浄土宗全書』九巻 132頁

粤に淨業の沙門義山和尚京華頂蘭若に寓して道俗に通して起請文の次第を悉ク和解メ勸二化シ玉フ之一云云時元文元辰五月上旬書寫之畢[13]『浄土宗全書』九巻 137頁

ここでは、当時に『一枚起請文』の邪説が蔓延していたために、義山が道俗に和文をもって講述したとされている。

次に関通の著書『一枚起請文梗概聞書』に関しては『関通和尚行業記巻之下』と『一枚起請文梗概聞書』において次のように述べられている。

『関通和尚行業記巻之下』

芝山正二位黄門重豊卿はあつく師の教道にし。日課念佛を誓受し。單信無二に稱名したまふ寶●暦の旧字体四年師轉輪寺において。この卿の請によりて。元祖大師の遺誓を。講談せられけるとき。日日講筵にまうで聞にしたがひて筆記し。●益の旧字体を無窮にほどこし。

受敎の恩蔭に報ひんとて。後日それを梓に壽したまふ。一枚起請梗概聞書これなり[14]『浄土宗全書』十八巻 257頁

『一枚起請文梗概聞書』

且く八門の梗概を談じて。粗一途の所歸を知しめんと欲す。されば本文をふかくもむつかしくも云なさずして。たださらさらと讀たるばかりにて心得るこそ。大師の素懷にてこそあらめ。

中なか異解を逞して。廣く沙汰しなば。一紙の本意を失せん。恐るべし愼むべし[15]『浄土宗全書』九巻 151頁

ここでは、黄門重豊卿の請いによって、関通は『一枚起請文』の本意とは異なる解釈が行われているので、平明な解釈を心がけながら、科文に八門を設けて『一枚起請文』を解説したとされている。

次に法洲の著書『一枚起請講説』では的門が執筆した『一枚起請講説』の跋において次のように述べられている。

今時カニルニ之●稱の旧字体淨業者流而説法度生スルノヲ茫乎トメ聖淨難易ヲモ自他廢立ヲモ不生異流一念邪義(中略)長之萩藩敎安寺單譽和尚榮周院相譽和尚梅岸寺千譽和尚ナル者慨嘆之餘屡就師父還源老人宗敎之弊ンコトヲ正路

[16]『浄土宗全書』九巻 311頁

ここでは、当時の浄土宗の布教が他宗の教義と混説していたため、萩の教安寺単譽、榮周院相譽、梅岸寺千譽の三人が法洲に規範となる説教の作成を要請し、法洲が『一枚起請文』を講述したのが『一枚起請講説』であるとされている。

以上のように、当時『一枚起請文』が本来の意義とは異なる解釈がされて、定まった解釈がなされていなかったのを嘆いた周囲の人が著名な学僧に依頼して『一枚起請文』の註釈書が執筆されたことが判明した。これは江戸時代というのが、浄土宗の組織化が進行する時期であり、教義のバラつきを修正する必要があったことから、元祖の教えの要でもある『一枚起請文』を著名な学僧に註釈してもらい浄土宗の教義を確立していったと考えられる。

おわりに

『一枚起請文』の註釈書を宗派別と年代順に整理した結果『一枚起請文』の註釈書が江戸時代になって飛躍的に増えている事がわかった。その江戸時代に増えた理由として、四点が挙げられる。第一は、龍哲によって校訂された『一枚起請之註』『一枚起請見聞』の流布である。特にそれまで知られていなかった『一枚起請文』註釈書の嚆矢である『一枚起請之註』を広く知らしめたことにより、その後の註釈書にも大きな影響を与えた。第二は天台宗の靈空が『一枚起請旁觀記』を著述したことを契機として浄土宗僧が註釈書を著述したこと。『一枚起請旁觀記』では聖冏等への批判をしたので、浄土宗西山派の超然、浄土宗の素信、敬首、徳歸が聖冏等の説を擁護して『一枚起請旁觀記』を批判する形で註釈書を著述した。第三は浄土宗の学僧の執筆。当時まだ解釈にばらつきがあった中でその時代の学僧がそれぞれ浄土宗としての解釈を確立したことによるものである。第四は真宗大谷派の僧(特に講師職・擬講職の者)が勉学・布教の資料として『一枚起請文』を取り上げていたこと。以上の点が重なり、『一枚起請文』の註釈書作成は江戸時代に興隆したのである。

一時代、宗派を超えて諸師が『一枚起請文』の註釈書を執筆している。『一枚起請文』研究においては、この諸註釈書を一つ一つ丹念に繙く必要がある。今後は諸註釈書の記述について研究を進めていきたい。

〔付記〕

本稿は平成26年12月24日に行われた佛教大学仏教学会学術大会において口頭発表したものである。その場で田中典彦先生、市川定敬先生からご指摘頂いた点も加味し加筆、訂正した。ご指導頂いたことを記し感謝申し上げる。

脚注

脚注
1 川龍彦『一枚起請文原本の研究』(国書刊行会 1984年5月)の附録に掲載。
2 この分類は藤堂稿で掲載されているものまでであり、これ以降も現在まで藤井実応『法然上人と一枚起請文 法然上人のご遺訓』(大東出版社、1986年)、藤堂恭俊『一枚起請文のこころ』(東方出版、1987年)等の多数の『一枚起請文』の解説書が存在する。
3 講師職に就いて『一枚起請文』の註釈書を執筆したのは慧空、慧然、慧琳、慧敝、深励、宣明、寳景、大含である。また、擬講職に就いて『一枚起請文』の註釈書を執筆したのは靈曜、澄玄、大鐡、知現である。
4 『一枚起請見聞』(1664年刊)19丁表
5 寛文四年(1664年)の『一枚起請之註』と『一枚起請見聞』は龍哲が出版したものである。
6 「ナド」といっているのは聖聡等のことである。
7 福原隆善「近代における『一枚起請文』研究の動向」(『浄土宗学研究』九 1976年)、福原隆善「近代における『一枚起請文』研究の動向」(『浄土宗学研究』十 1977年)
8 敬首の批判について福原氏は「近代における『一枚起請文』研究の動向」(『浄土宗学研究』九 1976年)において、『一枚起請親聞』の以下の箇所を挙げている。 上人ノ意ハ断惑章理ノ為即身成仏の為ナラバ、観念観法種種ノ甚深ノ法門シカルベシ。今ハ往生極楽ノ為 ナリ。往生極楽ノ為ニハ南無阿弥陀仏ト申外ニ別ノ子細ナシトナリ等ト。今謂ク、此起請文スデニコレ大漸ノ期ニ臨ミ示シ給フ所ナレバ、近ク一宗ノ中ノ安心門化他門ヲ弁別シタマヘル者ナリ。何ゾ遠ク聖道ノ行ニ簡別シタマハンヤ。
9 『浄土宗全書』十八巻 34頁
10 『浄土宗全書』九巻 130頁
11 『浄土宗全書』九巻 131頁
12 『浄土宗全書』九巻 132頁
13 『浄土宗全書』九巻 137頁
14 『浄土宗全書』十八巻 257頁
15 『浄土宗全書』九巻 151頁
16 『浄土宗全書』九巻 311頁