目次
「エホバの証人」の組織における基本単位は、会衆(かいしゅう)と呼ばれる。
例を豊橋市内にとってみれば、1986年時点では、4つの会衆があり、「豊橋市西会衆」「豊橋市北会衆」というように呼びあっている。これは、信者の地域的集団を意味していて、一定の地域に住む信者を統轄している。この会衆が集まって聖書研究する建物を「王国会館」と呼んでいる。そして、会衆の人数が多くなると、新たな「王国会館」を建て、今までの会衆を2つに分けて活動する。ひとつの会衆は約100人前後である。
この会衆の上に組織されるのが巡回区と呼ばれ、約20の会衆で構成される。巡回区内の信者は普通1年に2回、巡回大会に集まる。巡回区の上にあるのが「地域区」と呼ばれるもので、年に1回、「地域大会」を開く。
「地域区」の上に「支部」が置かれる。日本の「エホバの証人」は「日本支部」にすべて所属する。
「支部」の上に「本部」があり、「エホバの証人」の「本部」は、アメリカ合衆国、ニューヨーク市ブルックリンに所在する。「エホバの証人」の発行する聖書・書籍冊子の原文はここで作られ、世界の諸言語に訳されている。それゆえ、「エホバの証人」の教義は本部で決定され、それが末端組織の各会衆にまで徹底される。これらの組織関係を図にすれば次のようになる。(図1)
「エホバの証人」の活動は、筆者から見ると、大きく2つに分けられる。それは宗教活動と社会活動とである。宗教活動とは彼らが週に2、 3回「王国会館」に集まって聖書研究をすることや、すべての家を訪れて戸別伝道をすることである。
社会活動とはしばしば新聞やテレビなどに取り上げられるところの社会的な行動のことである。それを列挙すれば次のようになる。
すなわち、
これらの社会行動は、彼らの教義から起きているものであって、「それは間違っていますよ」とこちらが言っても、「エホバの証人」の教義を信じきっている人達には通用しない。彼らの教義の間違いに気づき、「エホバの証人」の組織から離れた時に、初めてこれらの行動がなくなる。
しかし、組織から離れたとしても、これらすべての行動が一挙になくなる可能性は少ない。段階的になくなると見た方がよいだろう。というのは、「エホバの証人」から離れて、ほかのキリスト教会(中でも他宗教に寛容でない宗派)に入信した場合には、輸血拒否はなくなったとしても焼香拒否は依然として続くであろうから。
これらの社会行動のうち、どの項目が除かれるかは、彼らをその組織から離れさせるために援助した人の宗教観・社会観に関係するであろう。
ところで、先に簡単に述べた彼らの宗教活動をここで少し詳しく説明しよう。「エホバの証人」の宗教活動には、他のキリスト教各派に見られるような宗教儀礼は非常に少なく、聖書研究と戸別伝道の2つが大きな柱となっている。
聖書研究には3種類の形がある。その3つとは
1.「王国会館」での聖書研究
週2回、「王国会館」に信者が集まって行うものである。それには次のような時間割が当てられている。図2
「公開聖書講演会」では、聖書の教え、預言などが取り扱われる。「ものみの塔研究」では、彼らが戸別伝道の際、未信者の人に頒布する冊子「ものみの塔」誌を中心に勉強する。「神権宣教学校」とは、本部の発行するテキストを使って「エホバの証人」の教理を勉強する。「奉仕会」とは、伝道の実際的な勉強で、例えば2人1組になって、ミニ劇のようなことをする。1人が「エホバの証人」の伝道者で、もう1人が未信者の役をする。この2人の会話を通して伝道のテクニックを覚えていく。
2.「会衆の家」での聖書研究
毎週火曜の夜に、会衆のひとりの自宅で「エホバの証人」の出版した単行本を勉強していく。
3.「未信者の家」での聖書研究
「エホバの証人」の戸別伝道を受けた未信者が彼らの勧めに応じて、毎週1回時間を決めて勉強する。そのテキストは「会衆の家」での聖書研究で使われる単行本と同じものである。
これら3つの形での聖書研究が存在するが、それは信者の自主的な研究というものではない。それぞれのテキストは同じ形態で書かれている。すなわち、文章の各段落ごとに番号が打ってあり、第何節という節分けがしてある。そして、本文下の脚注にそれぞれの節番号とそれに応じた質問が書かれてある。その答えは本文中に存在するので簡単に答えられる。しかし、これが彼らのトリックでもある。脚注の質問に対しては本文以外の答えを認めないのである。テキストの導入部分では、誰もが認めるような質問があり、誰でもが正解を答えることができる。これに気をよくしていると、いつの間にか彼らのペースで答えているという仕組みである。
それゆえ、彼らが聖書研究と呼んでいるものは、彼らの教義の一方的な押しつけの方法なのである。
次に宗教活動のもうひとつの柱である戸別伝道について述べよう。この戸別伝道は、彼らの信者全てが行うことになっている。その仕方は次の3段階に分けられる。
すなわち、
の3段階である。
1.すべての戸口に立つ
彼らの教義に基づいており、彼らの各テキストで繰り返し説かれている。だから、彼らは在俗の家はもちろん、他のキリスト教の教会や寺院にもやって来るのである。なお、戸別伝道の際、幼児を連れて歩いている婦人が多いが、それも「常に子どもたちを教えなさい」という彼らの教義に従うものである。そして、親の伝道する姿を見せて、自分の子供たちを「エホバの証人」の信者にさせる目的をもっている。
2.『ものみの塔』『めざめよ』誌の頒布
戸別訪問の折、未信者の人が自分たちの話に応じてきた場合に行なう。この2誌を買い求める人は少なくとも宗教に興味があると判断するためである(実際には、彼らの訪問を受けた人が、早く帰ってもらうために買う場合もあるのだが)。
3.「未信者の家」での聖書研究
先の聖書研究の3番目と重なる。すなわち、『ものみの塔』『めざめよ』誌を購入した未信者の家にたびたび訪れ、その人に、「あなたのご自宅で聖書研究をしませんか。」と話を持ちかけ、同意が得られれば、毎週1回、曜日と時間を決めて訪問し、彼らの出版する本に基づいて勉強を始める。未信者がだんだん彼らの教義を受け入れるようになった段階で、「王国会館」での集会に参加するように勧める。
「王国会館」の周回に参加した未信者は、「エホバの証人」たちの熱心さに影響されて、自分も彼らのようになろうとする。そして、先輩伝道者のお伴をして戸別伝道に従う。これらの行動を熱心に行う未信者は、「エホバの証人」の一員になろうと決心し、会衆の人々もその熱心さを認めた場合に洗礼が行われ、正式の「エホバの証人」が1人誕生することとなる。
これらの活動を図に示せば次のようになる。(図 3)
「エホバの証人」たちの行動は、その教義に従っている。それは聖書に依っているが、従来知られているキリスト教徒は随分違う。その異なる点を以下に挙げてみよう。
1.神の解釈
2.聖書の解釈
3.救済の解釈
これらの点は彼らの独自の聖書解釈によるもので、他のキリスト教各派からも非難されている所である。しかし、キリスト教や聖書に無縁であった人には、彼らの行う質疑応答形式の聖書研究によって、「ああ、そうなのか」ということになり、ついには「エホバの証人」の熱心な伝道者となってしまう。いったい、どのようにして未信者が熱心な信者となってしまうのか、その階梯を考えてみよう。それは大きく3つの階梯に分けられる。
すなわち、
第1の階梯では、「エホバの証人」のみが真の唯一の宗教であるということを受け入れてしまう段階をいう。この段階はさらに3つの段階に分けられる。その3とは、
この3段階のうち、従来のキリスト教徒には、第1の項目は必要がない。また、異教徒(キリスト教以外の宗教。彼らから見れば仏教徒もこれに当たる)には第2の項目は必要なく、聖書が真理であることが受け入れられれば直接第3の段階に進んでしまう。
聖書が真理であることを証明する彼らの論理は独特のものである。詳しくは次節に後述するとして、ともかく彼らの主張を受け入れた未信者たちは次の階梯に進む。すなわち、
人間の政府はすべて悪であり、神の政府こそ全き善である。
というものである。この階梯には6つの項目が説かれる。その6とは、
これらのことがらを説明していこう。
1.世界の諸悪の根元は悪魔の仕わざ
彼らの聖書理解から導き出される。この世界を創造したのは神である。神は天地を創造し、生物を造り、最初の人間アダムとエバを造った。神はこの2人を「エデンの園」に住まわせた。そして、神はその園のすべての果実を食べてよいが、「善悪の知識の木」の果実を食べてはいけない。食べると必ず死ぬからと警告した。その時、悪魔は蛇を使ってエバを誘惑し、「善悪の知識の木」の果実を食べさせた。その訳は、神の命令に従う人間を、自分の命令の下に置こうとしたためである。以来悪魔は神の反対者として、アダムとエバの子孫である人間に対し、歴史の中の諸の悪をなしてきた。というのが「エホバの証人」の解釈である
2.人間の政府は悪魔に支配されている
彼らの解釈する社会観である。どんな政府も犯罪や人種問題を解決していない。また、国民すべてに適当な食物や住宅を供給していない。老化や死を食い止めたり、死者を生き返らせたりしていない。これらは神の反対者である悪魔が人間を支配している証拠であると主張する。
3.神の政府の支配が開始された
イエス・キリストの再臨を指す。神は悪魔がエバを反逆に加わらせた時に、人類を治める新しい政府の必要を見てとった。それで今から1900年余り前、イエス・キリストを遣わして神の王国政府の到来を宣明させた。イエス・キリストはアダムとエバから始まる人間の罪をあがなうため命を返し、天に戻った。神は人間の政府が市民を首尾よく治められないことを悟らせるため一定の期間待っていた。そして、西暦1914年から神の王国政府の支配が始まった。その王国の王はイエス・キリストであるという。
4.最終的にハルマゲドンの戦いとなる
神の王国政府がハルマゲドンの戦いの後、地を治める唯一の政府となるというものである。ハルマゲドンとは、神と悪魔との戦いのことで、悪人だけが滅ぼされる。それは神の政府の支配の始まった1914年に生きていた人々の世代のうちになされるとのことであるから、間もなく行われると主張する。実は、彼らは1975年にハルマゲドンがあると預言したが、何も起こらず謝罪したことがある。
5.全地から邪悪な国家と人間が除き去られる
先のハルマゲドン後のことを云う。彼らの教義では、邪悪な国家とは現在あるすべての国家を指すことになる。そして、除き去られるべき邪悪な人間とは、「エホバの証人」以外の人間だそうである。また、神の王国政府になれば地上は楽園となる。戦争がなくなり、犯罪も人種問題もない。適当な食物と住居が供給される。病気や死はなくなり、死者はよみがえる。それゆえ、神の王国が間近にせまっている現在、少しも早く「エホバの証人」の信者になりなさいという訳である。
6.目に見える神の組織
「エホバの証人」の本部のことを意味する。他の宗教組織は神の教えを正しく宣べていないので偽りであるとする。そして、神の王国が実現した時、これらの偽りの宗教も除き去られるから、地上を統治するのは「エホバの証人」の本部ということになる。
これらの6項目が信じられる人は既に「エホバの証人」になってしまった人である。未信者は洗礼を受けて正式の信者になっている頃である。「エホバの証人」となった人は次の階梯、すなわち、「神の政府の臣民となる」階梯に進む。
この階梯では3つの行為が要求される。つまり、「神の政府の臣民になりたい」と口で言うだけではその益は得られない。その王国政府の支配者の定めた必要条件を満たさなければならないという。その3つとは、
これらの3つを説明しよう。
1.神の王国政府に関する知識が必要
具体的には「エホバの証人」の聖書研究の集会に出席して、本部の出版する単行本・冊子を読んで覚えることである。
2.義にかなった行為が必要
先の第2節で述べた「エホバの証人」の社会行動をするということである。いままで見たところから、公職選挙の投票をしないことや、国旗・国家を拒否することは人間の政府に従わないことであることがわかる。輸血を拒否することも、「血を避けよ」と聖書にある言葉を彼らなりに解釈した行動である。その他の行動も義にかなった行為として、彼らは行動しているのである。自ら考え、自らの良心に従って行動しているのではなく、神の政府の臣民になりたくて組織の定めた行動をしているのである。それゆえ、彼らの行動を直接に非難しても、彼らが「エホバの証人」である限りその行動は変わらない。
3.神の政府に対する忠節が必要
伝道を指す。神の政府が近い将来におとずれることを人々に宣べ伝えることが忠節を示すことであるとする。この伝道の行為は一見すると利他的のようである。そして、彼らも隣人愛に基づくものと考えている。ところが、実は、自分が神の政府の臣民になるために行なうのであるから利己的である。
これら「神の政府の臣民となる」ための行為は彼らの教義の最終階梯であるとともに、彼らの救済観とかかわる。というのは、神の王国の臣民以外は滅ぼされるのであるから、救済されたければ臣民とならざるを得ない。それゆえ、自分の救済のためには熱心な信者とならねばならない。伝道を受けた未信者はそれを誤解するのである。
以上、「エホバの証人」の教義の階梯を見てきた訳であるが、ここで表を示して整理しておこう。
唯一の真の宗教
1.聖書が真理
2.偽りの宗教
3.真の宗教
人間の政府と神の政府
1.世界の諸悪の根元は悪魔のしわざ
2.人間の政府は悪魔に支配されている
3.神の政府の支配が開始された
4.最終的にハルマゲドンの戦いとなる
5.全地から邪悪な国家と人間が除かれる
6.目に見える神の組織
神の政府の臣民
1.神の王国政府に関する知識が必要
2.義にかなった行為が必要
3.神の政府に対する忠節が必要
では彼らは、聖書が真理であることをどのような形で証明しているのであろうか。彼らはさまざまな根拠を持ち出して、聖書が真理であることを訴えている。ここに数例を挙げてみよう。
彼らの出版物のひとつに『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』(1982年発行、以後本稿では『楽園』と略す)というのがあるが、その第5章「聖書は本当に神から与えられたものですか」の第21節の全文をここに挙げよう。
イエス・キリストは神への祈りの中で、「あなたのみ言葉は真理です」と言われました。(ヨハネ17:17)しかし、事実はこの言葉を裏付けていますか。聖書を綿密に調べるとき、聖書は本当に真理だとわたしたちは考えるでしょうか。歴史の研究者で聖書を研究した人たちは、聖書の正確さにしばしば驚かされます。聖書には確証できる明確な名前と詳細な事柄が記されています。幾つかの例を考えてみましょう。[1]『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』 53頁(以下『楽園』 と略す)、ものみの塔聖書冊子協会
そして、例の質疑応答用の脚注を見てみよう。
イエスは神の言葉をどのようにご覧になりましたか。[2]『楽園』 53頁というのである。この脚注ではイエスは神の言葉、すなわち、聖書は真理だったという答えが出てくる。キリスト教や聖書に無縁であった人は、「なるほど、聖書が真理なのか」ということになってしまう。しかし、これはイエス・キリストの言葉であるから、イエス・キリストがいう神の言葉は、旧約聖書の神のことになり、旧約・新約のすべてを言っているのではない。この『楽園』の本は続いて第22節から第25節において、聖書に記されている歴史が正確である証拠を述べている。これは聖書考古学の分野のことであって、古代イスラエルの歴史を含む聖書が考古学的に実証されたとしても、それが直ちに聖書全体を真理とすることには当たらない。
続いて『楽園』は第26節をこのように記している。
しかし聖書に載せられている事柄で正確なのは歴史だけではありません。聖書の述べることはすべてが真実なのです。科学上の事柄に触れているときでも、聖書は驚くほど正確です。2つだけ例を挙げてみましょう。古代には、地球は何か目に見えるもので支えられているとか、巨人か何かの上に載っているなどと一般に信じられていました。しかし、聖書は、科学的証拠と完全に一致して、神は「地を無の上に掛けておられる」と述べています。(ヨブ26:7)また、過去において多くの人々は、地球は平たいと信じていましたが、聖書はそのようには言わずに、神は「地の円の上に住む方」と述べています。― (イザヤ40:22)[3]『楽園』 55、56頁
この節の脚注の設問は次のごとくである。
聖書が科学的にも正確であることを示すどんな証拠がありますか。[4]『楽園』 55頁
この設問の答えとして彼らが求めているのは、地球が宇宙空間に浮いていることと、地球が球体であることを聖書が述べているというものである。
生命―どのようにして存在するようになったか、進化か、それとも創造か
この第26節の文章で、どうしてそのような答えが導き出されるのかと疑問に思われるが、「エホバの証人」の信者は既に他のテキストで詳しく説かれた文章を読んでいるので、確信をもってこの答えを出す。そのテキストのひとつに、本稿の後半で詳述する『生命―どのようにして存在するようになったか、進化か、それとも創造か』(1985年発行、以後本稿では『創造』と略す)というものがある。この『創造』の第17章「聖書は信頼できる本ですか」の第3節からは、「聖書と科学」という小見出しで述べられている。ここに地球空間浮遊説と地球球体説の論拠が述べられている。前者は第3節に、後者は第4、5節に述べられている。
初めに第3節の地球空間浮遊説について見ていこう。第3節の全文は次のとおりである。
聖書が書き記されていたころ、地球が宇宙内でどのように支えられているかに関して一般に憶測がなされていました。例えば、ある人々は、地球は大きなウミガメの上に立つ4頭のゾウによって支えられている、と信じていました。しかし、聖書は、それが書かれた時代の空想的で非科学的な見方を反映するどころか、ただ簡単にこう述べていました。「神は北をむなしいところの上に張り伸ばし、地を無の上に掛けておられる。」(ヨブ26:7)そうです、今から3000年以上前に、聖書は、地球にはなんら見える形での支えはないこと、すなわち、比較的近年になって理解されるようになった、引力や運動の法則と一致した事柄を正確に述べていました。「ヨブがこの真理をどうして知っていたのかという点は、聖書が霊感によるものであることを否定する人々にはなかなか解けない疑問である」と、一宗教学者は述べました。(原文注3)[5]『生命-どのようにして存在するようになったか、進化か、それとも創造か』 199、200頁(以下『創造』 と略す)、ものみの塔聖書冊子協会
原文注3―「クックの注解」F・C・クック編、1878年、第4巻、96ページ
この節の脚注設問は次のごとくである。
地球を支えているものに関して古代の人々はどんな見方をしていましたか。
しかし、聖書はどのように述べていましたか。[6]『創造』 199頁
彼らの求める答えは第3節の本文のとおりということである。地球が大きなウミガメの上に立つ4頭のゾウによって支えられていると考えた古代人は、インド人である、どの古代人もそうであるが、彼らの住んでいる地域は非常に狭く、その範囲内で宇宙と天体を考えていたのである。それゆえ、内陸地の民族には海の観念がなく、海洋の島々の民族には大陸の観念はない。インド人はインドの地形に基づいて、彼らの宇宙観を作り上げた訳である。ところが『創造』のさし絵でわかるように、ゾウが支えている地球は半球体である。図4
古代インド人は世界の中央にヒマラヤ山脈が位置し、太陽や月は半球状の地球の周りを回っており、夜が来るのは太陽が地球の裏側を回っている時だと考えた。
では「エホバの証人」が、聖書が真理であることの証拠として取り上げた「ヨブ記」は、本当に地球の宇宙空間浮遊説を述べているのであろうか。
「ヨブ記」は、旧約聖書のうち諸書に賊するもので、信仰者の物語である。ヨブという正直な人が、正しい信仰を持っているかどうかを神に試されて、家族も財産も奪われ、全身に腫れ物を受けて苦しむ。そこへ3人の友人が来てヨブの信仰を疑う質問をする。それに応えてヨブは自分の正しいことを主張する。この論争物語が「ヨブ記」である。
「エホバの証人」は、「ヨブ記」の第26章第7節を挙げている。筆者はここに第5節から第11節までを挙げる。
5.死んだ無力な者たちは震えている。水とその中に住まう者との下にあって。
6.シェオルは〔神〕の前では裸であり、滅び〔の場所〕も覆うものがない。
7.〔神〕は北をむなしい所の上に張り伸ばし、地を無の上に掛けておられる。
8.水をその雲に包んでおられるので、雲塊はその下にあって裂けない。
9.王座の面(おもて)を囲い、その上に雲を広げておられる。
10.〔神〕は水の面(おもて)に円を描かれた。そこまでで光は闇で終わる。
11.天の柱さえも震い、〔神〕の叱責のゆえに驚嘆する。[7]『聖書、新世界訳』 813頁ものみの塔聖書冊子協会
ここに挙げた文章は、何を意味するのであろうか。ヨブは、神がこのように地球を造ったことを述べている。地を無の上に掛けた神は、その他にどんなものを造ったのか。死んだ無力の者たちをとどめるために、地下にシェオル(地獄)を設け、雨水を蓄えるために、天に雲を造った。そして、その中間に生ける人間の住む地を掛けたのである。
これらのことをもとにして、ある百科事典は次のような図を示している。図5
「ヨブ記」に説かれる宇宙像は当時のヘブライ人(ユダヤ人・イスラエル人と同義)が考えていたものであって、地は天国と地獄の中間に浮かんでいることを述べているにすぎない。また、古代ヘブライ人は、地が宇宙の中心で太陽や月はその周りを回っているとする天動説を採っていたのであるから、地球が太陽系の一惑星として、宇宙空間に浮いていることを証明することにはならないのである。
「エホバの証人」の発行する『創造』に述べられた地球空間浮遊説は以上のようなものである。
では、地球球体説の記述はどのようなものであるのか。以下に見ていこう。ここに『創造』第17章の第4節、第5節を挙げることにする。
4.地球の形について、アメリカーナ百科事典はこう述べています。「人間が地球に関して抱いた観念として知られている最古のものによれば、地球は、宇宙の中心に固定された、平らな台のようなものであった。……地球を球体と見る概念は、ルネッサンスになってようやく広く受け入れられるようになった。」原文注4 初期の航海者たちの中には、船が平らな地球の端から落ちてしまうことを恐れた人もいたほどでした。しかし、その後、羅針盤その他の改良された器具が導入されて、長い航海ができるようになりました。これら「発見時代の航海は、この世界が丸く、たいていの人々がそれまで信じていたような平らな所ではないことを明らかにした」と、別の百科事典は説明しています。原文注4
5.しかし、そのような航海よりずっと前、事実、2700年も前に、聖書はこう述べていました。「地の円の上に住む方がおられ、地に住む者たちは、ばったのようである」。イザヤ40:22ここで「円」と訳されているヘブライ語「フーグ」には、デイビッドソンの「ヘブライ語、カルデア語分析辞典」などの参考書も示すとおり、「球体」という意味もあります。そのため、他の翻訳はその部分を、「地の球」(ドウェー訳)、また、「丸い地」(モファット訳)とも訳しています。このように聖書は、それが書かれた時代に広く見られた、地球は平らであるという誤った見方に影響されてはいませんでした。それは正確でした。[8]『創造』 200、201頁
(原文注4―アメリカーナ百科事典、1977年版、第9巻、553ページ)
(原文注5―ワールドブック百科事典、1984年版、第20巻、136ページ)
そして、第4節と第5節の脚注設問は、この2節を合わせて出されている。すなわち、
(イ)かつて人々は地球の形についてどんなことを信じていましたか。そのためにどんな恐れを抱いていましたか。
(ロ)聖書は地球の形状について何と述べていますか。
(イ)の設問の答えの根拠になるのはアメリカーナ百科事典の記述である。古代には、地球は平らな台であると考えられたのが、ルネッサンスの時代になって球体の概念が広く認められたという文章であるが、問題なのは「……」として中略してある部分である。ではその部分を示してみよう。
太陽・月・星、そして惑星などのすべては、この台の回りを回っていると思われた。しかしながら、早くも紀元前6世紀には、ピタゴラスのようなギリシアの思想家達は、この単純な概念を超えて、地球が球体であるかもしれないと気づくほど、はるか十分に発達していた。すなわち、彼らは遠くの船が水平線の下に落ちるように見えたり、北方または南方に旅行する観測者にとって、星の位置が地平線に関連して変化するように見えたり、月食において地球の影が曲がっていることに気がついていた。
このようにして、紀元前約250年頃のギリシアの天文学者エラトステネスは、太陽が南エジプトのシエネで頭の真上にある時に、北エジプトのアレキサンドリアでは天頂から7度南にあることに注目することによって、地球の大きさを概算した。この角度と二つ町の間の知られている距離とを使って、彼は地球の半径を算定し、当時にあっては驚くほど正確な数字を得た。[9]『アメリカーナ百科事典』 1970年版、第9巻、533頁”ENCYCLOPEDIA AMERICANA”
(原文英語筆者邦訳)
「エホバの証人」の『創造』の筆者は、この中略部分の文章を省略して、地球の球体の概念が認められたのは、羅針盤などの器具の導入による長い航海の結果であると説く。『創造』の筆者は、この中略部分をどのように考えているのだろうか。中略するからには一応はこの部分を読んだ筈である。読んでいながら中略するのは、「エホバの証人」の説く、聖書が科学的にも真理であるという前提を崩されたくないからである。
では(ロ)の設問の答え、聖書は地球が球体であることを示している、という論拠はどうであろうか。「イザヤ書」は旧約聖書のうち、預言書に属する書物であって、預言者イザヤが古代イスラエル王国の民に向かって、神の言葉を告げたとされる文章である。この書は聖書批評学者によって、学問的に分析され、3つの思想・文体を有することによって、第1イザヤ・第2イザヤ・第3イザヤの3人の作者によって書かれたとされる。
「エホバの証人」の『創造』の筆者が引用している「イザヤ書」の第40章は第2イザヤの部分に当たる。(「エホバの証人」は聖書批評学を認めない。それゆえ、イザヤは1人であると説く)その第22節と第23節の全文をここに挙げる。
22.地の円の上に住む方かたがおられ、〔地〕に住む者たちは、ばったのようである。その方は天を目の細かい薄織りのように張り伸ばしておられ、それをその中に住むための天幕のように広げ、
23.高官たちを無に帰しておられ、地の裁き人たちをも実在しないもののようにされた。[10]『聖書、新世界訳』 1092頁
第22節の冒頭は、「地の円の上に住む方(かた)」と書かれてあるが、後半には「天を張り伸ばし、天幕のように広げた」とある。この第22節後半の文は、実は中世のカトリック教会が、地球球体説に反対する論拠とした文章なのである。つまり、神が天幕のように広げた天の下の地が球体である訳がないと主張する。この方法で第22節全体を解釈するならば、「地の円」とは、平面上の円であり、一歩譲っても半球体としか考えられない。
また、『創造』の筆者が主張する「円」のヘブライ語には「球体」という意味もあるというのは、日本語の「丸い」と同様である。「丸い団子」が「球体の団子」だからといって、「丸い皿」が「球体の皿」とはならない。それゆえ、「エホバの証人」の言う、「イザヤ書」の中の「地の円」は、地球球体説の論拠とはならない。
このように、「エホバの証人」が、地球の宇宙空間浮遊説と地球球体説とを以って、聖書が科学的にも真理であると主張する過程を見てきた。しかし、彼らはこれ以上の、また最大の根拠があると言っている。それは預言の成就であるという。次にこれを見ていこう。
「エホバの証人」が、聖書が真理であることの最大の証拠として取り上げている預言の成就とはどのようなものなのか。『楽園』の続きを見てみよう。第27節の全文をここに示す。
しかし、聖書が本当に神から与えられた本である最大の証拠は、将来のことを予告する完全な記録です。人間が著した本で、歴史をそれがまだ生じないうちに正確に伝えている本は一冊もありません。ところが聖書はそれをしているのです。聖書は正確な預言、そうです、実際に前もって書かれている歴史で満ちています。その中でも最もすばらしいのは、神のみ子が地に来られることについての幾つかの預言です。ヘブライ語聖書は何百年も前もって、この約束された方がベツレヘムで生まれること、処女から生まれること、銀30枚で売られること、罪人のうちに数えられること、彼の体の骨は1本も折られないこと、彼の衣のためにくじが投げられることその他非常に多くの詳細な事柄を、正確に予告していたのです。
― ミカ5:2。マタイ2:3-9。イザヤ7:14。マタイ1:22、23。ゼカリヤ11、12、13。マタイ27:3-5。イザヤ53:12。ルカ22:37、52:23:32、33。詩編34:20。ヨハネ19:36。詩編22:18。マタイ27:35。[11]『楽園』 56頁
第27節の脚注設問は次のとおりである。
(イ)聖書が神から与えられた本であることを示す最も強力な証拠は何ですか。
(ロ)ヘブライ語聖書は神のみ子についてどんな事柄を正確に予告しましたか。
設問(イ)の回答は、聖書には将来の予告が正確に述べられているというものである。つまり、数々の預言が成就したことをいう。そして設問(ロ)の答えは、ヘブライ語聖書(一般に言う旧約聖書)が、神のみ子、イエス・キリストが処女から生まれることなどを正確に預言していたというのである。
旧約聖書は39冊の書から構成されているが、そのうち、預言書と呼ばれるものが21冊ある。これらの預言書の中に将来の予告が述べられているという。また預言書以外の聖書にも将来の予言がなされていると言う。
それでは『楽園』で述べられている預言と成就を表にすると次のようになる。表2これらのうち、例として2の「処女から生まれる」の項をを検討してみよう。預言としての「イザヤ書」第7章第14節は、
それゆえ、エホバご自身があなた方にしるしをお与えになります。見よ、乙女が実際に妊娠して、男の子を産みます。彼女はその名を必ずインマヌエルと呼ぶでしょう。[12]『聖書、新世界訳』 1052頁
とある。これに対する成就として「マタイによる(福音)書」第1章第22節、第23節は、
22.このすべては、預言者を通してエホバによって語られたことが成就するために実際に起きたのである。こう言われていた。
23.「見よ、処女が妊娠して男の子を産み、彼らはその名をインマヌエルと呼ぶであろう。」これは、訳せば、「わたしたちと共に神はおられる」という意味である。[13]『聖書、新世界訳』 1415頁
とある。「マタイによる(福音)書」に記されている如く、イエス・キリストが処女から生まれることは、キリストの誕生を遡ること700年前、預言者イザヤによって預言されており、それが成就されたとする。それゆえ、聖書は真理であるという。これが「エホバの証人」の解釈である。
ところが、「エホバの証人」以外のキリスト教徒、特に聖書学者は彼らのようには解釈しない。聖書学者は聖書を文献学的に研究して次の如く考えた。聖書はユダヤ教・キリスト教の信仰に基づいて編集されたものである。聖書の各書はそれぞれ独立して成立したが、年代の新しいものは古いものを土台として成立した。キリストの生涯を説く4つの福音書も、旧約聖書と呼ばれるユダヤ教聖典に基づく救済者の考えに依っている。
紀元前後のユダヤ教には救済者到来のメシア信仰があった。救済者は古代イスラエルの英雄ダビデ王の再来であると考えられ、その出生もダビデ王と同じくベツレヘムの地であるとされた。また、救済者は神の子であるが故に、処女より生まれなければならないとされた。このベツレヘム伝説、処女降誕伝説を含むメシア信仰を土台として福音書は成立した。
4つの福音書のうち、キリストの誕生物語を有するのは、マタイとルカの福音書の2つである。キリストの誕生物語の成立について赤司道雄は『聖書』の中で次のように記している。
マタイ伝、ルカ伝の著者の性格の相違、これら両福音書の伝道対象の相違、そして、これらの福音書の受け取った資料の相違などが、まったく異なった2つの物語を構成させているのである。それにおそらくは、イエス誕生の事実については、マタイ伝、ルカ伝が書かれる以前には、初期のキリスト教団はこれを知らなかったであろうし、またかならずしも知ろうと思わなかったと考えられるのである。
それは、最古の福音書マルコが、一言もこれについてふれておらず、またもっとも新しいヨハネ伝すら、イエスの誕生を問題としていないこと、さらにパウロ―その活動と著作の幾つかは福音書以前である―が、キリストの十字架、復活をしばしば問題にしながら、キリストの神性を証明すると思われる処女降誕については、まったくふれていないことから推察できよう。
イエスの死後、キリスト教団は20年たらずのうちに、地中海の東岸、北岸にひじょうな速度で広がっていった。しかしこの初期キリスト者のあいだでは、キリストの再来、キリストによる神の国の到来が信じられていたので、キリストの伝記を書き残すというようなことは必要とされず、ましてその誕生の様子を知ることは、さしたる関心事ではなかったものと思われる。
イエス・キリストの誕生に関心を持ったのは、その著作にユダヤ人にたいする特別の宣教意図を持ったマタイ伝の記者と、伝記的関心のとくに強かったルカによって、はじめてあらわれたことで、ここからマタイらしい、またルカらしい聖誕の物語ができあがるのである。
(中略)
まず、マタイ伝の聖誕物語の意図はどこにあるのであろうか。それは、イエスを、ユダヤ人に向かってキリストであると証明することに重点がある。だからマタイの伝えるキリストの像には、きわめてユダヤ的なメシア観が如実に反映している。すなわち、第1にメシア=キリストはユダヤの王であるという観念である。
(中略)
イエスがメシア=キリストであることの証明は、マタイ伝においてはなお3つの事によって裏付けされる。第1は、ベツレヘムでの誕生である。これはルカ伝にも共通のことであり、おそらく処女降誕の伝承と、ベツレヘム生誕地説とは、そうとう早い時代に教団内に形成され、マタイ伝、ルカ伝の両方に取り入れられたものであろう。[14]『聖書』 89-91頁赤司道雄著、中公新書、中央公論社
このように、キリストの誕生物語は、初期キリスト教団共通のものではなく、メシア信仰を有するユダヤ人に対して意図されたものである。この意図に基づいて、「イザヤの書」の処女降誕の言葉が、福音書記者マタイによって引用され、預言が成就された形に誕生物語が書かれた。キリストを旧約聖書の預言の成就者とみなして預言文を引用することを「成就引用」という。
小河陽著『旧約の完成者イエス』には次のように記されている。
イスラエルに与えられた約束の完成としてのイエスの出来事は「成就の思想」によって確認される。その成就はまず「預言」の成就として記述される。マタイは福音書記者の中で最も顕著にイエスの歴史における「預言成就」を協調する。それは、旧約預言の成就を指摘する非常に特徴的な導入句を伴う預言引用という形式をとっており、一般に「成就引用」と呼ばれている。
(中略)
導入句は個々にわずかな変化が見られるが、基本的には、「このことが起こったのは、預言者を通して言われたことが成就されるためであった。すなわち彼は……と言う」と記される。このような引用は、多少特別な2・6、同23、26・56も含んで、12箇所に見出せる。[15]『旧約の完成者イエス』 229、230頁小河陽著、(『福音書のイエス・キリスト』 第1巻)、講談社
このように、マタイはメシア信仰を持つユダヤ人に対し、メシアはキリストであることを証明するため、旧約聖書の預言文を引用してその成就者としてのキリストの姿を描き出したのである。
これらのことからわかるように聖書学者は、処女降誕の件について「エホバの証人」の解釈と異なる。聖書学者の見解は、キリストを神と信じた聖書記者の手によって、預言が成就された形で引用された、というものである。「エホバの証人」は、預言が成就したから聖書は真理であるとするのに対し、聖書学者は、聖書を信仰の書とするから助言が成就したとするのである。
「エホバの証人」の主張する聖書が真理であることの証拠としての預言の成就は、聖書学者によって退けられるものである。
以上のように、聖書が真理であることの証拠として「エホバの証人」が挙げた、イエスの言葉、地球空間浮遊説、地球球体説、預言の成就を見てきた。彼らの用いる証拠とその証明方法は、聖書に無縁なものにとっては反証不能である。反証不能なことから、聖書に無縁なものは、聖書が真理であるという「エホバの証人」の主張内容に従ってしまう。
筆者はキリスト教信者にとって聖書が宗教的真理であることを認める。それは、仏典が仏教徒にとって真理であることと同様であるという前提において認めるのである。しかし、「エホバの証人」が提示する、聖書が真理であることの証明方法は否定する。
本章では、「エホバの証人」の現況として、組織・活動・教義・聖書の証明法を示してきた。次章ではその歴史を見ることとする。脚注[+]
↑1 | 『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』 53頁(以下『楽園』 と略す)、ものみの塔聖書冊子協会 |
---|---|
↑2 | 『楽園』 53頁 |
↑3 | 『楽園』 55、56頁 |
↑4 | 『楽園』 55頁 |
↑5 | 『生命-どのようにして存在するようになったか、進化か、それとも創造か』 199、200頁(以下『創造』 と略す)、ものみの塔聖書冊子協会 |
↑6 | 『創造』 199頁 |
↑7 | 『聖書、新世界訳』 813頁ものみの塔聖書冊子協会 |
↑8 | 『創造』 200、201頁 |
↑9 | 『アメリカーナ百科事典』 1970年版、第9巻、533頁”ENCYCLOPEDIA AMERICANA” |
↑10 | 『聖書、新世界訳』 1092頁 |
↑11 | 『楽園』 56頁 |
↑12 | 『聖書、新世界訳』 1052頁 |
↑13 | 『聖書、新世界訳』 1415頁 |
↑14 | 『聖書』 89-91頁赤司道雄著、中公新書、中央公論社 |
↑15 | 『旧約の完成者イエス』 229、230頁小河陽著、(『福音書のイエス・キリスト』 第1巻)、講談社 |