その背景

「エホバの証人」の歴史は、1870年代の初め、アメリカの一都市から始まる。チャールズ・テイズ・ラッセルを長とする聖書研究の集まりが発足した。以後そのグループが発展して現在の「エホバの証人」の団体となった。筆者は、彼らの歴史を述べる前に、その背景となる歴史的諸要素をここに示したい。というのは、この諸要素がいままで述べてきた彼らの教義や聖書解釈を理解する鍵であると考えるためである。

それらの諸要素とは、

  1. 古代イスラエル史
  2. アメリカ教会史
  3. 聖書批評学と聖書考古学
  4. 近代主義と根本主義

の4要素である。以下これらを見ていくこととする。

1.古代イスラエル史

旧約聖書に表されたイスラエル民族の歴史のことである。旧約聖書には、天地創造以来紀元前5世紀頃までの事が記述されている。中でも大きな事件としては、モーゼのエジプト脱出、サウル、ダビデ、ソロモンの統一国家、南北王国の分裂、北王国の滅亡、南王国の滅亡とバビロニア補囚、ペルシアによる統治などがあげられる。

(図6) 彼らは民族の興亡を、神と人間との関係で理解した。当時の中近東には民族の異なる多くの国家が存在し、それらの多くは多神教の国家であった。

イスラエルは唯一の神エホバに仕えることを民族の団結の基準とした。古代人は多神教であれ、一神教であれ、国家宗教であった。国家が栄えた時には神の加護を信じ、亡国の折には自らの神に背いて他の神々に仕えたことへの神の怒りを感じた。南王国の滅亡以来イスラエル民族は、政治的には他民族の支配を受け入れざるを得なかったが、宗教的には他民族の神々を拒否することによって民族の誇りを保とうとした。そして、救世主の出現と神の国の到来を期待した。

現在の「エホバの証人」の教義にある神の王国政府の到来、人間の政府に対する否定は、この古代イスラエル史に基づくのである。

2.アメリカ教会史

ヨーロッパ人がアメリカ大陸へ入植して以来の宗教史をさす。
1492年のコロンブスの航海によって未知の大陸の存在がヨーロッパに報告された同時期、ルターに始まる宗教改革の嵐が吹き荒れた。そして、ローマカトリックに反抗するという意味のプロテスタントが生まれた。しかし、プロテスタントはその発足当時から各派に分かれていた。各派はカトリックの教会制度に反対して、信仰は聖書のみに依る形をとったが、その聖書解釈によってさまざまのグループに分かれた。

(図7) ヨーロッパに生まれたプロテスタント各派は、宗教の自由を求めてアメリカ大陸へ渡った。 (図8)

北アメリカ東部海岸(のちの独立13州)は、初めイギリスの植民地として出発したため、英国国教会の影響が強く、一部の州では国教会制度が敷かれた。国教会に反対したピューリタン各派は、本国同様、国家による宗教支配に反対した。1776年アメリカ独立宣言を起草したトーマス・ジェファーソンの努力によって、1785年「ヴァージニア宗教自由法」が成立し、以後国家と宗教の分離が法制化していった。

アメリカは独立とともに西部開拓が進められ、入植者に従って伝道者も西部に赴いた。伝道者は各地を巡回して説教をした。「エホバの証人」の「巡回区」制度はこれに依る。

また、プロテスタント各派の教義の一部には「エホバの証人」のそれと似たものもある。例えば、ユニテリアン派における三位一体説の否定、バプテスト派における、幼児洗礼の否定、洗礼における浸礼(全身を水に浸す洗礼法。この浸礼に対し頭に水を滴らすのを滴礼という)などである。

(図9) 主なものとして、ディサイプル教会、モルモン教、セブンスデー・アドヴェンティスト、クリスチャンサイエンス、エホバの証人、ペンテコステ派などがあげられる。その中で、「エホバの証人」の創始者ラッセルに最も影響を及ぼしたのはセブンスデー・アドヴェンティストである。この教派はウィリアム・ミラーの予言に始まる。彼は「ダニエル書」に基づく計算によって、キリスト再臨を1843~44年と予言してまわった。予言は実現しなかったが、彼の弟子たちは教派を作り今日に至っている。

「エホバの証人」も同じく、「ダニエル書」に依る計算から、キリストの再臨を1914年としている。その年が第一次世界大戦の勃発した年のため、「エホバの証人」はこの予言が正確であったと力説する(しかし、彼らの予言は一度ならず行われており、他の予言ははずれている。詳しくは後述)

このように「エホバの証人」の教義や制度には、他のアメリカ諸教派の影響が見られる。

3.聖書批評学と聖書考古学

近代における学問的な聖書研究の分野のことである。
聖書批評学は18世紀頃から盛んになった。それまでは、聖書は霊感に依って書かれており無謬であると誰もが思っていた。ところが、聖書本文の文献学的研究によって聖書各文書の成立過程や編集過程が推測されるようになった。その結果、聖書は複数の伝承資料から順次編集されたものであることがわかった。

(図10) 創世記」などのモーゼ5書の複数資料説やイザヤ3人説などである。そして、多くの預言はその事件の後に加筆されたところの「事後預言」であるとした。現在多くのキリスト教徒はこの聖書伝承説を、信仰と別次元のものとして科学的に受け入れている。

ところが、「エホバの証人」はこれを懐疑主義によるもので、神の言葉を疑うものであるとしている。彼らの立場は「聖書無謬説」の立場である。

聖書考古学とは、19世紀後半から始まった学問分野であって、聖書に名前の出て来る各地を発掘調査して、聖書の歴史的記述を傍証するものである。そこには2つの流れがある。ひとつは、聖書に記されながらその後廃墟となって歴史から消えた古代都市の遺跡の発見である。特に古代イスラエルと敵対関係にあった諸国家の首都、アッシリアのニネヴェ、バビロニアのバビロンの発見は当時のヨーロッパ世界にセンセーションを巻き起こした。

もうひとつの流れは、古代文字の解読である。中近東の発掘事業によって大量の粘土板文書が発見されたが、それらは近代人にとっては謎の文字であった。多くの言語学者がその解読作業にのりだし、エジプトの神聖文字や、メソポタミアの楔形文字が解明された。そして、粘土板文書の翻訳がなされた。その結果は次の如くである。

  1. エジプトやメソポタミアには紀元前3000年頃から王朝が存在した。
  2. 聖書にしか伝えられていなかった古代の諸国家名や王の名前が実在した。
  3. 聖書に記述されていた多くの戦争が相手国側からも確認された。
  4. イスラエル以外の中近東諸国家の多神教宗教の内容が明らかにされた。
  5. 聖書の中の天地創造やノアの洪水の物語の元となったと思われるメソポタミアの神話が存在した。

このような研究成果によって、2種類の修正がなされた。ひとつは、初期の聖書批評学者が主張したことの修正である。彼らは、聖書の最初の部分は聖書作者による創作であるとしたが、それは誤りであった。全くの創作ではなくて、天地創造やノアの洪水の物語は、メソポタミア神話からその題材を取ったものであった。また、古代イスラエル王国の存在も疑問視されていたが、建国(紀元前1000年)とそれ以後の聖書の歴史的記述はかなり正確であった。もちろん、その歴史的記述とは戦争や朝貢などの記述であって、敗戦の理由がエホバの怒りであることを証明するものではない。現代の聖書批評学は、古代イスラエル王国の建国以後の史実性を認め、建国以前の歴史の伝承性を主張することとなった。

もうひとつの修正とは、聖書本文中にある記述の誤りについての指摘である。例えば「エホバの証人」が現在の予言の根拠として度々引用している「ダニエル書」には、バビロニアの最後の王をベルシャザルと記している。聖書ではベルシャザルの父をネブカドネザルとしているが、事実はナホニドスであることが判明した。

このような聖書考古学の研究によって、聖書本文中の記事は、一部はその正確さが確認され、一部はその誤りが指摘された。しかし、「エホバの証人」は、聖書と歴史が一致する部分を取り上げて「聖書無謬説」を主張する。

近代における聖書批評学と聖書考古学の出現は、聖書が霊感を受けて誤りなく書かれたと思っていたキリスト教徒たちに重大な課題を背負わせた。そして、多くの人々は二重の真理を見出した。すなわち、「信仰的真理」と「学問的真理」の分離である。学問的に聖書が研究された結果、聖書が伝承による諸資料から編集され、加筆され、その中に歴史的誤りがあったとしても、信仰の依り所としては不変であるとの態度を取るようになった。

ところが、「エホバの証人」は、聖書批評学には真向から反対し、聖書考古学には聖書と歴史の一致する部分のみを利用しているのである。

4.近代主義と根本主義

19世紀後半から興ったキリスト教世界における2つの流れである。
近代主義とは、近代科学の成果(その中には、聖書批評学、聖書考古学、宇宙論、進化論なども含まれる)を信仰とは別次元のものとして受け入れる立場である。根本主義とは、近代主義に反動して興った立場である。根本主義者たちは近代主義者の言説を拒否する所から始まる。すなわち、聖書は、伝承された諸資料から編集されたこと。天地創造やノアの洪水物語は、メソポタミアの神話から題材が取られたこと。進化論の主張するところの、人間が神の被造物でなく、進化してきたことなどの意見である。近代主義者はそれらを受け入れても信仰は揺るがないとするのに対し、根本主義者はそれらを認めれば信仰はなくなると解釈する。

根本主義という言葉が歴史に現れたのは、1895年に近代主義に反対する人々で結成された協議会で発表された声明文に始まる。その声明は「根本主義五原則」として、

  1. 聖書の逐語的無謬性
  2. イエスの神性
  3. 処女降誕
  4. 代償的贖罪論
  5. キリストの肉体的復活と身体的再臨

の5項目を発表した。
以後、根本主義(ファンダメンタリズム)という言葉はキリスト教世界に広まった。根本主義者は、特にプロテスタント各派の中に出現した。彼らは、各派の教会員として所属しながら、各派の近代主義者と争うこととなった。そして、一部には既存のプロテスタント教会から分離して、一団体を形成する者も現れている。

これら根本主義者はすべてに統一した見解を持っておらず、細部で異なり、多くのグループに分かれる。そのため、近代主義者から根本主義者の教説を一率に把握することは難しい。近代主義の聖書学者ジェームズ・バーは『ファンダメンタリズム』の中で、根本主義者に共通の特徴を次のようにまとめている。

a.聖書の無謬性、すなわち、聖書にはいかなる誤りもないということを熱心に主張する。
b.近代神学ならびに近代聖書批評学の方法と成果とその意義に対して強烈な反感を持っている。
c.自分たちの宗教的見解に同調しない人は真のキリスト者ではないという確信を持っている。[1]『ファンダメンタリズム』 27頁ジェームズ・バー著、喜田川信・柳生望他訳、ヨルダン社

このような見解は「エホバの証人」にもあてはまる。それゆえ、「エホバの証人」も根本主義のひとつと考えてもよさそうである。ところが、「エホバの証人」は根本主義者を攻撃している。それは、イエスの神性についての解釈が違う。「エホバの証人」にとって、神は唯一エホバのみとする。また、進化論の攻撃の仕方も異なる。根本主義者は創造の6日間の1日を24時間とするのに対し、「エホバの証人」は創造は6日間ではなく6つの期間であるとする。

「エホバの証人」は、自らの組織を、唯一で真の宗教組織と信じているので、他の団体と一緒にされることを嫌う。しかし、「エホバの証人」は根本主義に近似した団体であると考えてよい。

以上、「エホバの証人」の歴史を述べる前の背景として、古代イスラエル史、アメリカ教会史、聖書批評学と聖書考古学、近代主義と根本主義の4要素を見てきた。

次に「エホバの証人」の歴史について見て行こう。

アメリカ本部の歴史

 「エホバの証人」の歴史は、その創始者、チャールズ・ティズ・ラッセルの宗教活動に始まる。彼の両親は長老派教会員であったが、彼自身は組合派教会に通った。しかし、従来の教会の教義に疑問を抱き、独自の聖書研究の道を歩きだした。そして、1879年、彼が27歳の頃聖書研究の仲間とともに、「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」と題する雑誌を創刊した。これがこの団体の開始の年と見なされる。

 1881年に「シオンのものみの塔冊子協会」が設立され、3年後、ラッセルを会長とする法人組織となり、本部をピッツバーグに置いた。ラッセルは1886年に『聖書研究第一巻』(全7巻。第6巻まではラッセルが出版、第7巻は2代会長ラザフォードが編集出版した)を著し、彼の聖書解釈を公けにした。1889年本部がアルゲニーに移り、1891年には最初の海外伝道に赴いた。

 1896年、組織の名称が「ものみの塔聖書冊子協会」と改められた。現在もこの名称が彼らの正式な団体名である。

 1900年に、海外の支部第1号がロンドンに開設され、アメリカの本部も1909年にニューヨーク市ブルックリンに移った。現在もここが彼らの本部である。

 1911年と12年の2年間、会長ラッセルは世界一周の伝道旅行をなした。そして、1914年ヨーロッパに戦争が勃発した。いわゆる第一次世界大戦である。この1914年は、ラッセルが以前から予告していた、人間の統治が終わる年であった。続いてラッセルは、すべての国々は滅ぼされ、キリストが支配者となると主張したが、それは当たらなかった。

 1916年、ラッセルが死去し、翌年にジョセフ・フランクリン・ラザフォードが2代会長となった。1920年、従来からこの団体の基本活動である訪問伝道に、毎週ごとの報告書の提出義務が決定された。現在もこの制度は続いている。

 1931年、この団体は「エホバの証人」という名称を採択した。これは、初代会長ラッセルの支持者を分離するためである。また同年に、ワクチン注射は聖書に反すると表明した。

 1942年ラザフォードが死去し、ネイサン・H・ノアが3代会長となった。翌年、宣教者養成のための「ものみの塔ギレアデ聖書学校」が設立された。1950年から『新世界訳聖書』が発行された。これは、彼らの聖書解釈に基づいて訳されており、従来の聖書と語句が異なる。例えば「十字架」が「杭」と訳されている。

 1965年、以前に反対していたワクチン注射を今度は推奨する表明をした。ノアの時代に、「エホバの証人」の出版物は匿名で著述されるようになり、現在もこの方法である。

 1977年、ノアが死去し、フレデリック・W・フランズが4代会長となり、現在に至っている。

 「エホバの証人」の歴史の中には、いくつかの予言が出てくるが、これを会長ごとに整理してみると次の如くである(年号はその年に起きると予言された年を示す)。

初代会長ラッセル

1874年1.イエス・キリストは10月から臨在している。
2.神の大いなる日の戦い、つまりハルマゲドンが始まって、1914年に終わる。
1878年3.イエス・キリストは王として治めるようになった。
1914年4.異邦人の治める力がなくなり、そのあとで不完全な人間による統治が終わる。
5.戦争によって崩された制度の上に神の国が設けられ、全世界を治める権利を得る。
6.キリストが地球の新しい支配者となり、異邦人の政府を倒し、ご自身による正しい政治を行う。
7.大戦(第一次世界大戦)で勝利を収める国はなく、むしろ、すべての国々が滅ぼされ、不毛の地となる。
1916年8.この時はハルマゲドンの真っ最中である。

二代会長ラザフォード

1918年9.キリスト教会が滅びて、その何百万人もの会員たちがみな死んでしまう。
1925年10.アブラハム、イサク、ヤコブなどの旧約聖書の聖徒がよみがえって、
完全な人間として、しかも目に見えるかたちで現れる。
1940年11.大英帝国は、ナチス・ドイツによって滅ぼされる。
1941年12.数か月経てば、ハルマゲドンに入る。
13.第二次世界大戦において、枢軸国も、自由主義陣営も決定的な勝利を収めない。

三代会長ノア

1975年14.秋にはハルマゲドンがあって、神の千年王国が始まる。
つまり、1975年は世界の終わりである。
ハルマゲドンが終了していなければならない。

4代目会長フランズの代には、これといった予言がないが、ハルマゲドンが、1914年に生きていた人々の世代のうちにあるとしている。これを解釈すると、2014年前後以内にハルマゲドンになると主張していることになる。

このように、「エホバの証人」はいくつかの予言をなしたが、正確なものはひとつもなかった(1914年も終わりの年ではなかった)。彼らの歴史は不正確な予言によって進められて来たものである。

日本支部の歴史

 「エホバの証人」の日本における歴史は、第二次大戦の前と後に大きく分けられる。戦前の活動は明石順三によって進められた。彼は18歳で渡米し在住していたが、渡米十数年後に信者となった。

 1926年(大正15年)、彼が37歳の年に、本部からの正式派遣として、日本支部開設のため帰国した。彼は日本支部名を「灯台社」とした(ものみの塔の英語名がWatch towerであることから)。

 1933年(昭和8年)明石を含む数人が不敬罪容疑により検挙されるが、まもなく釈放される。

 1939年(昭和14年)には全国一斉検挙が行われ、130名余りが投獄され、終戦まで釈放されることはなかった。

 1945年(昭和20年)進駐軍命令によって、明石らは釈放された。翌年本部と連絡がつき、明石は灯台社再建にのりだす。ところが、明石は戦時下及び戦後の本部発行文書を読んで、三代会長ノアに批判書を送った。これに対し、本部は明石を、「高慢、不謹慎である」として、除名処分を通知してきた。以後、明石は独自の活動を行うこととなる。現在の「エホバの証人」の文書では、明石順三は偽善者として扱われている。

 戦後の「エホバの証人」の活動は、1949年(昭和24年)米国からの宣教者の入国によって始まる。そして、1951年(昭和26年)会長ノアが来日し、日本語による『ものみの塔』誌が発行された。以後は米国本部の指導のままに活動し、現在に至っている。昭和61年度版『宗教年鑑』によれば、教師数は3,618人(そのうち外国人は36人)信者は102,738人と報告されている。

脚注

脚注
1 『ファンダメンタリズム』 27頁ジェームズ・バー著、喜田川信・柳生望他訳、ヨルダン社