目次
前章までに、「エホバの証人」の現況と歴史を見てきた。これらのことは、彼らの団体を把握する上で必要と思われたので挙げた。この第三章では、本稿の目的である「エホバの証人」と進化論との関係を明らかにする前段階として宗教と科学の論争史を見ていきたい。
宗教と科学の論争と言っても、ここでは、キリスト教神学と科学との論争に話を絞りたい。というのは、科学と衝突してきたのは「聖書無謬説」に固執した人々であるからである。この論争は「聖書無謬説」と科学のそれと言い換えることができる。以下にその例として、地球球体説、地動説、進化論の三項目について見ていくこととする。
本稿第一章第四節で、「エホバの証人」が、「イザヤ書」の「地の円の上の方」という文章から、聖書は元来地球球体説であったと主張するが、キリスト教の歴史ではその逆である。
古代ギリシアの科学者たちが、地球球体の考えを持っていたことは、先の「アメリカーナ百科事典」の記す通りである。初期のキリスト教会の中の少数の人もこれを受け入れていた。ところが、多くの神学者、修道士たちは、聖書に反するとの理由でこれを否定した。例えば、六世紀の修道士、コスマス・インディコンプレステスは、聖書の中の文言を拾い出して、大地は平らな平行四辺形で、四つの海に囲まれている。そして、宇宙を包む天は円蓋であり、その円蓋は大地に接着すると主張した。いわゆる地球平面説である。
また一方には、球体説を受け入れながら、対蹠(せき)面説(地球の裏側にも人が住んでいるとする考え)には反対する人々がいた。つまり、地球の裏側で、人間が逆さまに歩いたり、雨が下から上へ降る訳がないと言うのである。5世紀の教父アウグスティヌスは、地球球体説には寛容であったが、対蹠面の存在には反対した。彼は次のような主張をした。「人間がそんな場所に棲むことを神が許したもうはずがない。なぜなら、もしそうであれば、キリストの再臨に際して空より降臨したもう主の姿を、対蹠面に住む人間は仰ぎ見ることができないだろうから。」と。
これら、地球平面説、対蹠面存在否定説を沈黙させたのは、1519年のマゼランの世界一周の航海であった。これによって地球の球体が証明された。ここにおいて「聖書無謬説」の人々は、地球の球体に関しては反対しなくなった。次に反対したのは地動説である。
「エホバの証人」は地動説の証拠を聖書から導き出さない。ただ現在事実として受け入れられている事柄であるというに過ぎない。
先に地球球体説で彼らが引用した「アメリカーナ百科事典」の、
地球を球体と見る概念は、ルネッサンスになってようやく広く受け入れられるようになった。[1]『創造』 200頁
とある文章に続いてその事典は次の文章を載せている。
他のギリシアの天文学者は、宇宙の中における地球の本質について、同様に、現代的な考えを持っていた。たとえば、アリスタルコスは、紀元前三世紀に地球は単に、太陽の回りを回っている惑星の一群のひとつであると提言した。
しかし、また、この太陽中心の見解も、ニコラス・コペルニクス、ヨハネス・ケプラー、そして、ガリレオ・ガリレイの努力に伴う17世紀まで広く受け入れられなかった。[2]『アメリカーナ百科事典』 第9巻、533、534頁
(原文英語筆者邦訳)
古代ギリシアの科学者が地動説を主張したにもかかわらず中世ヨーロッパは天動説であった。コペルニクス以前のキリスト教信者の中にも地動説を考えた人がいたが、彼の著作『天体の回転について』の公表は「聖書無謬説」支持者の反対に遭った。その中にはルターも含まれる。
コペルニクスの地動説は完全なものではなかった。地球が太陽を回る軌道を、完全な円軌道であるとした。それゆえ、天体観測の結果と理論が一致しないという困難があった。
ガリレオは地動説を主張したために、ローマの異端審問所に召喚された。審問官たちは地動説が聖書に矛盾するという理由で彼の説を異端と判決し、ガリレオに以後自説を公表しないよう誓約させた。
ケプラーは、地球のみならず太陽系の惑星の軌道が楕円であることを発見し、それを論証した。いわゆるケプラーの三法則である。これによって、天体観測の結果と理論は一致した。
彼ら三人の業績によって地動説は確立したが、人々がこれを容認するには長い時間がかかった。1543年に出版されたコペルニクスの『天体の回転について』は、1616年ローマ教会の禁書目録の中に入れられた。そして、他の地動説の書とともに解禁されたのは1835年のことであった。
生物学において、生命の起源及び種の起源を、神の創造と見なさず、自然法則に依るとするのが進化論である。生物学の祖とされるギリシアのアリストテレスは、自然界を無生物から高等動物までの連続的な系列として考えたが、進化の考えはなかった。
キリスト教世界となった中世及び近世ヨーロッパでは聖書の「創世記」に基づく生物観が一般的であった。すなわち、神が天地を創造し、そこに住む生物を創り、最後に人間の祖であるアダムとイブを創ったというのである。
近代に至り生物学会は、解剖学、分類学、古生物学などの発展がみられた。解剖学によって生物の器官の構造が知られるようになった。分類学によって、種・属・科・目・綱などの分類法が設定された。古生物学は化石を研究することによって、絶滅した古生物の存在を明らかにした。
また、地質学の発展によって、地球の年齢が考えられるようになった。それまでは「創世記」の天地創造から計算された年数、すなわち、地球は誕生以来約6,000年であるという説が信じられていた。そして、化石は「ノアの洪水」によって滅ぼされたものであるとも信じられていた。地質学者は地球が聖書による計算よりはるかに古い歴史を持っていることを主張した。
18世紀になると、生物学者の中には進化の概念までには至らないが、その萌芽と見られる考えが少しずつ表れてきた。そして、19世紀初頭、パリの自然史博物館の教授であったラマルクによって、初めて生物進化の考えが発表された。しかし、彼の説は当時の人々に注目されなかった。
ラマルクから半世紀のち、イギリスのチャールズ・ダーウィンが『種の起源』を出版した。1859年のことである。彼の進化理論は、自然選択による種の漸進的進化であった。これに対し、世間には三種類の対応が表れた。すなわち、
の3つである。出版直後には殆どの人が進化そのものに反対して彼を非難した。そして、出版の翌年、オックスフォード大学で開かれたイギリス学術振興協会の年次総会において、神学者と科学者の論争が起こった。進化論反対者として、ウィルバーフォース司教、進化論支持者として、ハックスリが討論した。論点はダーウィンの自然選択説そのものではなく、進化か創造かであった。更に究極の問題は、人間がサルから進化したかどうかであった。議論は最終的には感情的なものとなって、もの分かれ状態であった。しかし、進化論は今後の研究課題として正式に認められた。
『種の起源』は初版以来改訂が行なわれ、1872年の第六版を以って固定した。その間に生物学者の間では、自然選択説についての賛否はあったが、進化そのものを疑うものはいなくなった。
宗教界は生物学界ほど簡単ではなかった。科学と宗教は別次元であるとして科学に寛容な態度をとったもの。進化は認めるが、それは神の介在によってなされたと主張するもの。自然選択説の不備を突いて、それゆえ進化論は間違っていると言うもの。進化論は聖書の権威を傷つけたとして反対するものなどである。
これらさまざまな態度が見られたが、大勢は科学としての進化論に寛容の態度を示すことで落ちついた。そうして、進化論は一般社会に認められ、学校教育の中でも教えられるようになった。
ところが、アメリカの南部地方では様子が違っていた。「聖書無謬説」に固執する根本主義者の勢力が強かったため、進化論も感情的に嫌悪され、ついに1925年、テネシー州で「反進化法」が成立した。この法案の要旨は次の如くである。すなわち、
「州の公立学校基金が、全部もしくは一部財政援助している、本州内のいかなる大学、師範学校、その他すべての公立学校において、いかなる教師も、『聖書』の中に教示された神による人間の創造の説話を否定する理論を教えること、ならびに、そのかわりに人間が下等な動物より由来したと教えることは、違法である。」
(そして、100ドル以上500ドル以下の罰金が科せられる、という罰則がついた。)[3]『ダーウィンと進化論』 235頁
というものである。この法案を提出したのは、テネシー州下院議員バトラーであった。下院でこの法案が採決される時、多くの議院は、おそらく上院で否決されるであろうと考えて賛成票を投じた。上院議員は知事が拒否するだろうと考えて、下院と同じく賛成した。知事は、この法律が決して強制的に執行されないだろうと考えて署名した。
このような経過で「反進化法」が成立した。これに対し、高校の科学の教師スコープスが、進化論を教えたとして逮捕され起訴された。裁判はテネシー州デイトンで開かれた。そこには多数の傍聴人が集まった。また、新聞記者やヨーロッパの特派員も取材に現れ、ラジオの全国中継もなされた。スコープスの弁護側証人の弁護人クラレンス・ダロウと検察側証人の根本主義者ブライアンとの対話はそのクライマックスとなった。ダロウは、字句通り解釈すれば不合理となる聖書の箇所を次々に取り上げて追求した。質問の最後に、ダロウは、「天地創造には実際には6日以上の長い年月がかかったのではないでしょうか?」と聞いた。ブライアンは、「何百万年もかかったのかもしれないでしょう。」と発言して、「聖書無謬説」に対する一貫性を失った。
裁判の判決はスコープスを有罪としたが、世論は「反進化法」を支持しなかった。(この法律は、1967年に合衆国最高裁判所によって否認された。)
この裁判によって、世間は進化論と創造論の対立には決着がついたと思った。ところが、根本主義者は新たな活動を始めた。
1963年、カリフォルニア州オレンジに、創造研究協会が設立された。会員資格は、自然科学の分野で修士又は博士の学位を得たもので、聖書の教えを忠実に信じる者とされた。この団体はいくつかの分派に分かれたが、共通するのは反進化論ということである。
彼らの主張はこうである。進化論の中にもいろいろな説があり、仮説の域を出ていないではないか、それならば、創造論もひとつの仮説として同等に扱われるべきだ、というのである。そして、納税者の権利として、学校教育の場で進化論と同時間、創造論の授業をするよう要求した。いくつかの州ではこの要求に応えた法律が制定され、教科書会社の中には、進化論と創造論を併記した教科書を出版したところも出てきた。
このように、アメリカでは現在も進化論と創造論とは論争している。一般に、創造論者は根本主義者と同義と解されているが、「エホバの証人」も創造論者である。彼らは、根本主義者の「創造六日説」には賛成せず、「創造六期間説」を主張する。(詳しくは次章に述べることとする。)
以上、宗教と科学との論争として、地球球体説、地動説、進化論を見てきた。
そこには、科学を聖書に反するものと考えた人々と、科学を宗教と別次元のものとして探究していこうとする人々の姿勢の違いが見られた。そして、科学の進歩は、宗教と別次元と解釈する人々によってなされたのである。
では、「エホバの証人」と進化論の関係はどのようなものであるのか。次章に見ていくことにする。