「エホバの証人」は進化論の対抗理論として、創造論を主張する。それは、聖書の冒頭に記述されている天地創造の物語に依っている。
創造は6日間で行われたとされる(第7日目は神が創造行為を休んだ日とされる)。では、その6日間の創造行為はどのようなものなのか。その内容を見てみよう。
第1日目
s地は形がなく荒漠としており、闇で覆われていた時、神が「光が生じるように」と言う。すると光が生じ、光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ。
第2日目
神は「水の間に大空が生じ、水と水の間に区分ができるように」と言う。上方の水と下の水が区分され、その間に大空が造られ、天と呼んだ。
第3日目
神は「天の下の水は一つの場所に集められて、渇いた陸地が現れるように」と言う。渇いた陸地を地と呼び、水の集まった所を海と呼んだ。次いで神は「地は草を、種を結ぶ草木を、種が中にある果実をその種類にしたがって産する果実の木を、地の上に生え出させるように」と言う。するとそのようになった。
第4日目
神は「天の大空に光体が生じて昼と夜とを区分するように。それらはしるしとなり、季節のため、また日と年のためのものとなる。そしてそれらは天の大空にあって光体となり、地の上を照らすことになる」と言う。するとそのようになった。神は2つの光体を造った。大きい方は昼を支配し、小さい方は夜を支配する。また星も同じようにした。
第5日目
神は「水は生きた魂の群れを群がり出させ、飛ぶ生き物が地の上を、天の大空の表を飛ぶように。」と言う。そして神はそれらの生き物をその種類にしたがって創造し、「子を産んで多くなり、もろもろの海の水に満ちよ。そして、飛ぶ生き物は地に多くなれ。」と言う。
第6日目
神は「地は生きた魂をその種類にしたがい、家畜と動く生き物と地の野獣をその種類にしたがって出すように。」と言う。そして神はそのように創造した。
次に神は「わたしたちの像にわたしたちと似たように人を造り、彼らに海の魚と天の飛ぶ生き物と家畜と全地と地の上を動くあらゆる動く生き物を服従させよう。」と言う。そうして、人を男性と女性に創造して、「子を生んで多くなり、地に満ちて、それを従わせよ。そして、海の魚と天の飛ぶ生き物と地の上を動くあらゆる生き物を服従させよ。」と言う。次いで、「さあ、わたしは、全地の表にあって種を結ぶすべての草木と、種を結ぶ木の実のあるあらゆる木をあなた方に与えた。あなた方のためにそれが食物となるように。そして、地のあらゆる野獣と、天のあらゆる飛ぶ生き物と、地の上を動き、その内に魂としての命を持つすべてのものに、あらゆる緑の草木を食物として与えた。」と言う。そしてそのようになった。
これら6日間の創造行為を整理すると次のようになる。
第1日目 昼と夜の創造
第2日目 大空の創造
第3日目 1.地と海の創造
2.草木の創造
第4日目 大小の光体と星の創造
第5日目 水の生き物と飛ぶ生き物の創造
第6日目 1.野獣と家畜の創造
2.人間の創造
「エホバの証人」はこの創造物語に彼らなりの解釈を与える。その内容は、彼らの出版した『生命-どのようにして存在するようになったか、進化か、それとも創造か』という本に述べられている。
彼らは、この創造の6日間に対する全体の把握として、次の3項目を挙げる。
彼らは、これら3項目を前提として創造の6日間を解釈する。ではその各日の説明を見てみよう。
第1日目 「昼と夜の創造」
彼らの解釈では、太陽と月は、この第1日目よりずっと以前から宇宙空間に存在していたが、その光は地上の観察者に見えるかたちで地表に達しなかったとする。
第2日目 「大空の創造」
水の間に大空ができ、上の水と下の水が区別されたという聖書の記述に対し、彼らは、「『上方の水』が地から押し上げられたように見えたのでしょう。」と解釈する。地上の観察者の目にはそのように映ったというのである。
第3日目
第4日目 「大小の光体と星の創造」
聖書の字句どおり解釈すれば、第4日目に太陽と月と星が生じたことになる。しかし、「エホバの証人」の解釈は、聖書の字句どおりではない。太陽などの天体は創造の第1日目以前に宇宙に存在していたが、地球上の観察者には、第4日目にして存在が確認されたとする。彼らの記述を見てみると、
「1日目」には、散乱光が、地球をくるんでいたものを明らかに透過するようになりましたが、その光の源そのものは、依然地球を包んでいた雲の層のため、地上の観察者の目には見えなかったことでしょう。
しかし今、この「4日目」に物事は明らかに変化しました。[1]『創造』 32頁
とある。
第5日目 「水の生き物と飛ぶ生き物の創造」
前の第4日目には聖書の字句どおり解釈しなかった彼らは、ここでは、反対に、字句どおり解釈する。
第6日目
ある人々が結論しているような、第1章と矛盾する別の創造の記述ではありません。[2]『創造』 34頁
と主張する。ここで彼らがいう「ある人々」とは、聖書批評学者及び、その説を支持する人々のことである。つまり近代主義者を指す。近代主義者は、「創世記」第2章以後の創造説話を第1章のものと別の伝承に依って成立したと解する。「創世記」第2章の創造説話は次のようなものである。
野の草木がまだ生え出なかった時に、神は地面の塵で人を形造り、その鼻孔に命の息を吹き入れた。すると人は生きた魂となる(これがアダムの誕生である)。神はエデンの園を設け人をそこに置く。そして食物としての木を地から生えさせる。神は「人が独りのままでいるのはよくない」と言って、人を眠りにつかせ、あばら骨を一つ取り、その肉をふさいで女をつくりあげた(これがエバの誕生である)。
聖書批評学では、「創世記」第1章の創造説話と、第2章のそれとを区別する。その理由は、文体、神名、思想等の相違に依る。
第1章の説話は「祭司資料」(P文書とも呼ばれ、紀元前500年ごろ成立)に属し、第2章のそれは、「ヤーヴェ資料」(J文書ともいう。紀元前850年ごろ成立)に属すると解釈する。
つまり、第2章の説話の方が古い伝承であり、第1章の方が新しい伝承であると考える。それゆえ、聖書批評学では、人間の創造を、「祭司資料」における第6日目の創造と、「ヤーヴェ資料」におけるアダムとエバの創造との2つの伝承として解釈する。
「エホバの証人」はこの2つの創造説話の存在を否定する。
以上のように、「エホバの証人」は創造の6日間を解釈する。
そして、この解釈に反対する人々の存在を、彼ら「エホバの証人」は承知している。彼らの発行する『生命』の第3章第31節の全文をここに挙げよう。
この創造の記述は受け入れにくいとする人々が多くいます。それは古代人の創造神話、主として古代バビロンの神話に由来するものだと、それらの人々は論じます。しかし、最近の一聖書辞典が述べるとおり、「宇宙の創造について明確に述べている神話はいまだなく」、それらの神話は「多神教思想や神々の勢力争いを特色としていて、〔創世記〕1~2章に見られるヘブライ人の一神教思想とは著しい対照をなして」います。(原文注3)
バビロニアの創造説話に関して大英博物館の評議員会は、「バビロニア人とヘブライ人の記述の根底の概念は本質的に異なっている」と述べています。(原文注4)[3]『創造』 34、35頁
(原文注3-「図解聖書辞典」、ティンダル・ハウス社、1980年版、第1部、335ページ)
(原文注4-「聖書理解の助け」、ニューヨーク州、ものみの塔聖書冊子協会発行、1971年、393ページ)
この節の設問はこうである。
(イ)ある人々は創世記の記述についてどのように誤り伝えていますか。
(ロ)その主張が正確でないことを何が示していますか。[4]『創造』 34頁
「エホバの証人」の期待する回答は第31節の本文通りということになる。
聖書の創造の記述が古代バビロニア神話に由来すると主張するのは、聖書批評学、聖書考古学による成果を認めた近代主義者たちである。古代バビロニアの遺跡を発掘し、そこに埋蔵されていた、粘土板文書を解読した結果、バビロニアの神話が明らかにされた。それによれば、神々の戦いの結果、大地や天空が創られ、神につかえるものとして人間が創られたとある。その創造過程を表している文章を取り上げてみよう。これは『神々の戦争』と呼ばれる物語の一部である。
マルドゥークは、ティアマットの死骸を、貝がらのように二つに割りました。それからその一方を高く上方にあげて、大空にしました。次に、大空の下にある一面の水をしらべてその広さをはかり、ティアマットの体の残る半分で、蓋のようなものをこしらえて水にかぶせました。この蓋が、大地の土台になったのです。それから、アヌを大空の上の領分に住まわせ、エンリルを天と地の間に、エアを地の下の水の領分に、それぞれ住まわせました。ですから、アヌは空の神になり、エンリルは大気の神になり、エアは大洋の神になったのです。
それから、神々のひとりひとりに受持ちの場所を割り当て、天体をつくって大空の中で輝くようにしました。太陽だの月だの星だのは、こうしてできたのです。マルドゥークは、神々の働く時間と季節とを定め、星に軌道をつくってやりました。また月々の長さを定めました。東の空には、太陽が暁に出るための入り口をつくり、西の空には夕方そこから入るための出口をつくりました。
ところが、なにもかもがきちんときまってしまうと、神々はマルドゥークのまわりに集まって来て、小言をいいはじめたものです。
「あなたは、わたしたちに受け持ちの場所を割りあてて、それぞれ仕事をお言いつけになりました。けれど、わたしたちが仕事をする間、わたしたちのために働き、わたしたちを養う者を決めては下さらなかった。一体だれがわたしたちの家事を見たり食事の用意をしてくれるのですか。」
マルドゥークは考えこみました。
しばらくして、彼は勢いよく顔をあげ、ひとりごとを言いました。
「そうだ。血と骨とで、小さなひながたをつくろう。人間と呼ぶのだ。神々が自分の仕事をする間、人間が神につかえ、神の用を果たせばよい。」
(中略)
土牢からキングーが引き出され、エアの手に引き渡されました。エアは彼の首をはね、血管を切り裂き、その骨と血とで、人間と呼ぶ、神々につかえるべきひながたを作り出しました。[5]『世界最古の物語』 92-94頁H・ガスター著、矢島文夫訳、現代教養文庫、社会思想社
このバビロニア神話には、多くの神々が登場し、聖書における単一神教の神概念とは異なるが、その宇宙創造の順序は、
の順である。聖書批評学者たちはこの創造の順序という点に注目して、聖書の創世記との類似性を主張するのである。そして、バビロニア神話の古さから、聖書の記述が、前者に由来すると結論する。
さらに、聖書批評学、聖書考古学者は、バビロニア由来の物語として、「ノアの洪水物語」を提出している。「ノアの洪水物語」とは、聖書によれば、次のように概略することができる。すなわち、
神は地上に悪があふれ、人間を造ったことを悔やみ、心に痛みを覚える。それで、「自分が創造したものを、地の表からぬぐい去ろう。」と言う。しかし、ノアとその家族だけは義にかなったものたちであったので、神はノアに「箱船をつくり、家族と地上の動物の対(つがい)をその中に入れよ。」と命ずる。ノアはその通りにした。大洪水がおこり、地上は水で覆われ、高い山々もすべて水没した。150日後、天の水門がふさがれ、雨はやんだ。箱船はアララトの山にとどまり、ノアは箱船の窓を開き、鳩を一羽飛ばした。初め鳩は地上がまだ水で覆われていたので、どこにも着地できずに帰ってきた。2度目に鳩はオリーブの葉をくわえて来た。3度目鳩は戻って来なかった。それでノアは地上が乾いたことを知り箱船から出て、神へささげものの生き物を焼いた。
これが「ノアの洪水物語」である。これに類似するバビロニアの物語は、『ギルガメシュの冒険』の中に挿入された話である。ギルガメシュがウトナピシュティム老人から聞かされた話は次の如くである。
こう言って、彼はずっと昔、神々が地上におこされた大洪水の話をして聞かせました。そして知恵の神である思いやり深いエアが、どんなふうに風をかき鳴らして洪水を警告してくれたかを。風の音は、小屋の格子をゆすぶって老人の耳に達したのでした。エアの指図に従って、ウトナピシュティムは一そうの箱船をこしらえ、松ヤニやアスファルトで厳重に塗りかためました。それから、家族たちと家畜とをその舟に積み込み、水かさが増して、嵐が猛り狂い、稲妻がきらめき続ける七日七夜、水のうえをただよいました。
7日目に、箱舟は世界の果てのある山にのりあげました。老人は、もう水がひいたかどうかを知ろうと、窓から一羽の鳩を放ってみました。鳩はすぐ戻って来ました。とまって休む場所がなかったからです。今度はツバメを放ってみましたが、これも舟に帰って来ました。最後にカラスを放してやりました。
カラスは帰って来ませんでした。老人は、家族と家畜をうながして、いっしょに神々に感謝の祈りをささげました。[6]『世界最古の物語』 58頁
このようにバビロニア神話のひとつ『ギルガメシュの冒険』には記されている。聖書と共通しているのは、
などである。このことから、聖書の近代主義者は「ノアの洪水物語」の構成は、バビロニア神話から取り入れられたと考えるのである。
「エホバの証人」は、バビロニア人の多神思想や神概念の相違から、聖書とバビロニア神話の類似性を否定する。近代主義者もその宗教観の違いを認めつつ、創造物語や、「ノアの洪水物語」の構成においてバビロニア神話を借用したことを認めるのである。
以上、「エホバの証人」における創造論の内容を見てきた。
では、彼らが反対する進化論とはどのようなものなのか。次節においてその歴史と現況を見ていくこととする。
進化論は、ダーウィンの『種の起源』の発表以後、多くの科学者によって、聖書と切り離された、純粋科学として研究されて来た。
それでは現代に至るまでに、どのような学説が出されて来たのか、その歴史を見てみよう。
進化論史上、重要な学説には次のようなものがある。
以下、これらを概説することとする。
1.ラマルク説
ラマルクは、ダーウィンに先立つ進化研究者であった。彼は1809年に『動物哲学』を著わし、生物の進化の要因として、用不用説と獲得形質遺伝の法則を示した。用不用説の法則とは、ある器官が頻繁にまた持続的に使用されたならばその器官は発達し、その反対に使用されない器官の能力は劣っていくという説である。獲得形質遺伝の法則とは、ある器官が、環境の影響または持続的な使用によって獲得された変化が子孫に伝わるという説である。
この二法則は相依関係にあり、モグラの眼が退化したこと、水鳥の水かきが生じたことなどをこの法則の例として示している。
2.ダーウィン説
ダーウィンは、1831年イギリス軍艦ビーグル号に博物学者として乗船し、5年間の世界周航に従った。彼はヨーロッパ大陸に未見の動物を多く観察した。特に南アメリカのペルー沖に位置する、ガラパゴス諸島における観察では、スズメの一種であるフィンチが、島ごとにくちばしが異なることに注目した。彼はこれを契機として動物種が聖書の字句通りに不変ではないと考えた。彼の進化の理論が系統だてられ、『種の起源』として出版されたのは、1859年であった。
ダーウィンは、ラマルクの2法則を認めつつ、進化の第1要因として、自然選択説を立てた。自然選択とは、人為選択の対立語として用いられる。人為選択とは、育種家たちが、家畜や犬を人為的に選択して新種を作り出すことを言う。自然選択とは、野生生物において、自然条件や生存闘争によって新種が作り出されることを指す。
キリンの首が長いのは、より高い木の葉を食べることのできたキリンが生存闘争で生き残り、それが長い世代に亙って自然選択されたと説明する。それゆえ、自然選択による新種の形成には漸進的な長い時間が必要であると考えられた。
ダーウィンの『種の起源』の公表以来、科学者は進化を受け入れた。しかし、進化の要因としての自然選択説には賛否両論が出た。
3.反復説
反復説とは、1866年生物発生学者ヘッケルによって唱えられた。彼は脊椎動物の胚の類似性から、個体発生は系統発生を短縮した形でくり返すと主張した。哺乳類の胎児が子宮内の羊水中で育つのは、祖先が水中動物であったことの証拠であると説いた。
この反復説は、進化の要因を説明するものでないが、進化の事実を一般に納得させる学説となった。
4.隔離説
隔離説とは、1880年代に、ワーグナーとギュリックによって主張された、進化要因説である。
新種の形成には交雑を防ぐ隔離が必要である。隔離には地理的なものと生理的なものがあり、生理的に隔離されている場合には原種と新種の共存が可能であるとする。
5.定向進化説
この説は1890年代アイマーによって唱えられた。進化をもたらす変異は多方向ではなく、ある定まった方向にのみ生ずる。その原因は環境よりも、その生物に内在する性質によるとする。角の長さが3メートル以上にも達したアイルランド大鹿や、マンモスの巨大な牙はその例であるとする。
定向進化説では、進化の方向性を認めるため、自然選択は不必要となる。
6.ネオラマルキズム
定向進化説と同年代に出されたネオラマルキズムも自然選択説に反対する。ネオラマルキズムとはラマルクの学説である獲得形質の遺伝を認める立場である。この学派にはコープやオズボーンなど、アメリカの学者が多かった。
定向進化説が進化の方向性を主張するのに対し、ネオラマルキズムは環境の変化に対する適応によって新たな形質が獲得され、それが子孫に伝わると説く。
7.ワイズマン説
ワイズマンの学説は前2説と同じく1880年代に出された。彼はネズミの尾を何世代にもわたって切り続けたが、短い尾のネズミができなかった実験を基に、獲得形質遺伝に反対した。
彼はまた、細胞学の研究から、細胞核内の染色体の中に、生殖の折に形質を伝える役割を果たす物質が存在することを確認した。
この考えは、後の遺伝学に受け継がれた。
8.突然変異説
1900年にメンデルの遺伝法則の再発見(メンデルの法則は1865年に発表されたが、学会に受け入れられなかった)があり、生物の形質には、優性と劣性の対立因子が存在し、その子孫への伝わり方には数学的関係が成り立つことが知られた。遺伝の法則は、形質が変化しないことを前提にしているので、ダーウィンの説く漸進的進化を前提とする自然選択説と対立した。
これに対し、ド・フリースは1901年に突然変異説を唱えた。彼は、オオマツヨイグサの栽培実験で新種を得たことから、生物のそれぞれの種はある時期に突然変異を起こし、それが進化の要因であると主張した。
突然変異説も自然選択の作用による漸進的進化を否定するものと考えられた。
これらの考えを受けて、モーガンは1909年からショウジョウバエを材料にして遺伝の実験を行った。その結果、生物のひとつひとつの遺伝的性質がそれぞれ一個の遺伝子によって伝えられていることを明らかにした。そして、遺伝子は細胞核内の染色体上に配列しているものとされた。
また彼は、突然変異が遺伝子のレベルで起こり、有害な突然変異が除去され、有益なそれが残るという意味で自然選択の作用が働くと考えた。ここにおいて、進化の要因として、遺伝子の突然変異と自然選択説が結びつき、ダーウィン説が復活した。
9.集団遺伝学
1930年代からメンデル遺伝学とダーウィン説が統合されて、集団遺伝学が誕生した。これは、生物個体よりも、種の集団における変化を研究対象にしている。そのため、集団内の変化を数学的に把え、統計や確率が重視される。
生物の形質を決定する遺伝子には対立因子が存在するが、その割合は個々の形質において異なる。それを「遺伝子頻度」と呼ぶ。この頻度が、突然変異によって変動し、自然選択によって固定する。それが長い期間続くことによって新しい種が形成されるとする。ダーウィンの説いた、漸進的進化は集団遺伝学の前提となった。
10.ネオダーウィズム
集団遺伝学の発達とともに、生物学の広い分野から進化論を総合することが考えられた。ダーウィンの自然選択説を基盤にして、遺伝子突然変異や隔離説を取り入れられたので、ネオ(新)ダーウィズムと呼ばれる。
ネオダーウィズムでは、定向進化説、ネオラマルキズムの獲得形質遺伝は否定された。
現代の進化論の主流はネオダーウィズムであって、生物学以外の科学者が進化について述べる場合、その内容はネオダーウィズムの学説に依っている。
現況はどうであろうか。最近の進化理論を以下に見ていこう。
最近の進化理論として次の諸説が挙げられる。
これらについて以下に見ていこう。
1.中立説
中立説とは、1960年代に、木村資生やキング、およびジュークスによって唱えられた。
遺伝子の本体が、デオキシリボ核酸(DNA)という物質であることが明らかにされ、その分子構造も解明され、生物学に分子生物学が誕生し、その研究者の中からこの中立説が生まれた。
その内容は、分子進化に関与する突然変異の多くのものは、自然選択に無関係なもの、つまり有害でも有益でもない中立突然変異であって、進化においては偶然が大きな役割をしていると主張した。
2.今西説
今西錦司は、1960年代よりダーウィン説に反対し、自然選択による新種の起源を否定する。彼は京都の加茂川に生息する数種のカゲロウ幼虫が、流速のちがいに応じて生存することに基づき、棲みわけ説を唱え、種は変わるべくして変わるという主体性を主張した。
3.浅間説
浅間一男は1979年、化石植物の研究成果から、独自の進化説である生長遅滞説を発表した。植物は環境の変化(気温の年較差漸増や乾燥など)に伴い小型化し、生長を遅滞させ、新形質を追加して進化する。動物は反対に低温を防ぐため、大型化し(表面積比率は大型化する程小さくなる)新形質を獲得して進化すると主張する。
彼はネオダーウィズムを否定し、定向進化説や獲得形質の遺伝を認める立場にある。
4.断続平衡説
この説は古生物学者エルドリッジとグールドによって1970年代に発表された。生物の種は100万年を単位とする長い期間、環境がかなり変動しても変化せず(平衡)、その後、短期間に変化するという化石の観察事実に基づく。
進化の過程はネオダーウィズムの主張する漸進的進化ではなく、進化は激変の過程であると主張する。
5.獲得形質遺伝説
この説は1980年代に、ゴルチンスキーとスティールによって主張された。彼らは、ネズミを使って、免疫に関する実験を行った。その結果、免疫寛容性の遺伝することを証明し、獲得形質が遺伝すると考えた。
6.宇宙要因説
進化の要因を地球以外に求めるのが、宇宙要因説である。この説は天文学者や地質学者の中から出ホイルとウィクラマシンジは、生命体の付着した隕石の飛来によって、生命の誕生や進化がなされたと主張する。
以上、進化論の現況を見てきた。これらの諸説は現代の進化論の主流であるネオダーウィズムに対抗している。また、生物学者以外からも、ネオダーウィズムに対する疑問を示した著作も数多くある。たとえば、
これらは、新たな進化学説を提示していないが、ネオダーウィズム学説に反対している。
このように、進化論の歴史と現況を見てきた訳であるが、その中には数多くの学説があった。そして現在も進化論は論争中である。
本稿第3章で述べたように地動説はコペルニクスによって提唱され、ケプラーによって確定された。
進化論はダーウィンによって提唱されたが、進化論におけるケプラーは未だ現れていないと、筆者は考える。
この論争中の進化論を利用して進化そのものに反対するのが、聖書無謬の立場に立つ「エホバの証人」である。次節でその進化論の攻撃の仕方を見ていくこととする。