はじめに

法然上人二十五霊場と呼ばれる巡拝行は、難波恋西庵の順阿霊沢(以下霊沢)によって創始された。宝暦12年(1762)4月に自序を記し、明和3年(1766)秋彼岸に刊行された『円光大師御遺跡二十五箇所案内記』(以下『案内記』)には、法然上人の遺跡として二十五の寺院と若干の番外寺院が掲げられ寺院間の道順、寺院の縁起、本尊、什宝、などが述べられており、詠歌も示されている。

の札所霊場の詠歌がどのような理由で、一々の寺院に配置れたのであろうかを検討するものである

第1回 佛教論叢第45号掲載

法然上人二十五霊場と呼ばれる巡拝行は、難波恋西庵の順阿霊沢(以下霊沢)によって創始された。宝暦12年(1762)4月に自序を記し、明和3年(1766)秋彼岸に刊行された『円光大師御遺跡二十五箇所案内記』(以下『案内記』)には、法然上人の遺跡として二十五の寺院と若干の番外寺院が掲げられ寺院間の道順、寺院の縁起、本尊、什宝、などが述べられており、詠歌も示されている。 『案内記』の自序には、

一、二十五しゆの御ゑいかは、大しの御じゑいなり。もつともその寺々にて、詠じ給ふことにはあらねど、二十五のばんぐみをほつきゆへに、其御寺々へ御ゑい哥のがく、かけてしらしむ。是孤僧がおもひより、かのせけんにもてあそぶ、西國じゆんれいうたに、なぞらふものなり。[1] 『藤堂恭俊博士古稀記念・浄土宗典籍研究・資料篇』(以下『浄土宗典籍研究・資料篇』)253頁

-案内記-

とあり、詠歌に関して

1・法然上人の自詠であること

2・現地寺院にて詠じたものではないこと

3・詠歌額をかけたこと

-案内記-

を明かしている。本稿では1の点について、つまり、法然上人の、自詠かどうか、自詠でない場合にはどのような理由でその歌が採用されたのかを検討してみたい。まず二十五首の詠歌を『案内記』に記されたままに示せば、以下のとおりである。

△第一番誕生寺

両幡の、天降ます椋の木は、代ゝにくちせぬ、法の師のあと

-案内記-

△第二番法然寺

おぼつかな、たれかいゝけむ小松とは くもをさゝふる、たかまつのえだ

-案内記-

▲第三番十輪寺

うまれては、まずおもひ出ん、ふるさとに、ちぎりしとものふかきまことを

-案内記-

△第四番如来院

身と口とこころの外の弥陀なれば、われをはなれて、となへこそすれ

-案内記-

▲第五番二階堂

柴の戸に、あけくれかゝる、しら雲を、いつむらさきの、色に見なさん

-案内記-

△第六番念佛堂

阿弥陀仏と、西に心は空蝉のもぬけはてたる、こゑぞすゞしき

-案内記-

△第七番一心寺

阿弥陀仏と、いふより外は、津の國のなにはのことも、あしかりぬべし

-案内記-

▲第八番報恩講寺

極楽も、かくやあらまし、あらたのし、はやまいらはや、南無阿弥陀仏

-案内記-

▲第九番往生院

阿弥陀仏と、まふすばかりを、つとめにて、浄土の荘厳、見るぞ嬉しき

-案内記-

▲第十番法然寺

香久山や、麓の寺は、狭けれど、たかき御法を、ときてひろめむ

-案内記-

△第十一番龍松院

さへられぬ、光もあるを おしなへて、へだてかほなる朝霞かな

-案内記-

△第十二番欣浄寺

やわらくる、神のひかりの かけみちて、秋にかわらぬ、みしか夜の月

-案内記-

△第十三番瀧山寺

清水の、滝へまいれば、おのづから、現世安穏後生極楽

-案内記-

△第十四番正林寺

千とせふる、小松のもとをすみ家にて 無量寿仏の、むかへをぞまつ

-案内記-

△第十五番源空寺

一聲も、なむあみた仏と、いふ人の、はちすのうえに、のぼらぬはなし

-案内記-

△第十六番光明寺

露の身は、こゝかしこにて、きへぬとも、心はおなじ、花の臺ぞ

-案内記-

△第十七番二尊院

あしびきの、やまどりのをの、しだりをの、なかながし世を、いのる此てら

-案内記-

△第十八番月輪寺

月影のいたらぬ里は、なけれとも、なかむる人のこゝろにぞすむ

-案内記-

△第十九番法然寺

唯たのめ、よろづの罪はふかくとも、わがほんぐわんの、あらんかぎりは

-案内記-

△第二十番誓願寺

極楽は、はるけきほとゝ、聞きしかどつとめていたる所なりける

-案内記-

△第二十一番勝林寺

あみた仏に、そむるこゝろの、色に出ば、秋のこすへの、たぐひならまし

-案内記-

△第二十二番知恩寺

われは唯、ほとけにいつか、あふひ草、心のつまに、かけぬ日ぞなき

-案内記-

△第二十三番清浄花寺

雪の内に、佛の御名を、となふれば、つもれる罪も、やがて消ぬる

-案内記-

△第二十四番 金戒光明寺

池の水、人の心に、似たりけり、にごりすむこと、さだめなければ

-案内記-

△第二十五番 知恩教院

草も木も、枯れたる野べに 唯ひとり、松のみ残る、弥陀のほんぐわん

-案内記-

國枝利久教授は1988年発行の『藤堂恭俊博士古稀記念、浄土宗典籍研究、研究篇』「霊場寺院に付せられた和歌について」において

二十五首のうち、一番、四番、十番、十三番、十五番、十七番、二十番、二十五番の各霊場寺院に配されている八首の和歌は、法然上人の伝記類にはみえない作である。すなわち、これらの八首は、法然上人の和歌としてうけとめられてはきたが、勅撰集その他に拠れば、法然上人のご自詠とはみなしがたい和歌である。[2] 『藤堂恭俊博士古稀記念・浄土宗典籍研究・研究篇』(以下『浄土宗典籍研究・研究篇』)787頁

-霊場寺院に付せられた和歌について-

と述べられている。十三番は『勅伝』巻十三に「仁和寺入道親王の御無想 [3] 『浄土宗全書』(以下『浄全』)第16巻222頁」とあり、法然上人の作ではないが載録されている。これより以前、明治44年(1911)近江八幡の二階堂戒順師は『元祖大師二十五霊場御詠歌集校正本』を発行し、六首の詠歌を校正している。本書巻末の跋には、

絵詞伝語燈録に都て十九首の歌見ゆるにても知らるべし(中略)彼十九首と対照したりければ、二十五の中、無証歌十一首ありて配外の証歌五首也、又無証歌の内に心つかぬがみえければ之を削て洩たる証歌をもて其跡に移し、残余の六首は原本に任せて動かさず [4] 藤堂恭俊「法然上人遺跡二十五箇所巡拝に関して」・『講座日本の巡礼』第二巻聖蹟巡礼・247頁

-元祖大師二十五霊場御詠歌集校正本-

と記されて、無証歌つまり自詠でない歌を十一首としている。配外の証歌五首と校正した配内の一首とをみると[5]『浄土宗典籍研究・研究編』789・790頁、二階堂師のいう無証歌は國枝利久教授の指摘した歌のほかに、八番、十二番、十九番が追加される。八番は『勅伝』『語燈録』にはないが、『九巻伝[6]『浄全』第17巻200頁』等に見られ、十二番は、『勅伝』『語燈録』にはないが『十巻伝[7] 『浄全』第17巻296頁』には見られる。十九番は『勅伝』『語燈録』その他の伝記にはなく、『法然上人全集』によれば『御母子往復消息[8] 『昭和新修法然上人全集』1144頁』『熊谷入道に與へし名号に記せる和歌[9] 『昭和新修法然上人全集』1178頁』にこの歌がある。

また湛澄の『空花和歌集』(元禄9年・1696)には

上人の和歌。絵詞伝。語燈録に載するところすべて十九首 [10]『浄全』続第8巻342頁

-空花和歌集-

とあり、二階堂師もこれに従い、二十五首のうち、十一首を無証歌、十四首を証歌とし、証歌でありながら五首が配外になっていることを指摘している。

このように、『勅伝』『語燈録』所収の十九首を法然上人の自詠とするならば、二十五霊場詠歌の内、十四首が自詠と見なされ、他の伝承を含めば十七首が自詠と見なされる。

それでは、ふりかえって霊沢は『案内記』において、詠歌についてどのように述べているのかを見てみよう。霊沢は自序において「二十五しゆの御ゑいかは、大しの御じゑいなり。」と記しながら、札所寺院の文章において詠歌に関する記述をしている。それをすべてここに示す。

第四番 如来院

御詠哥は今の額にかけし通り、此御詠哥には、ふかき御こゝろの有よし。[11]『浄土宗典籍研究・資料篇』290頁

-案内記-

第五番 二階堂

洛中はいまた、其はゞかりありとて、此山の西の谷に、かんきよましますこと、四か年の間なり。此御詠歌も其の折から、口ずさみ給ふ。[12]『浄土宗典籍研究・資料篇』293頁

-案内記-

第五番 二階堂

ふたは二かいとうにあり。御ゑい哥はこのさうあんにて、如来のらいかうをまちわびて、口遊ひましませしなり。[13]『浄土宗典籍研究・資料篇』295頁

-案内記-

第六番 念佛堂

此御ゑい哥は、うつせみのめうごうとて、御じき筆今泉州堺超善寺にあり。[14]『浄土宗典籍研究・資料篇』298頁

-案内記-

第七番 一心寺

大師の御ゑい哥六字のめうこうの、かたわらにかき玉ふ。難波名号としやうす。本堂の前に石碑、たちて、其傳記あり。法泉寺一代珂然上人筆 玄誉上人泉州堺神明の寺町専修寺開基の時、此御めうごう持参あって、今はせんじゆ寺什宝となりぬ。[15]『浄土宗典籍研究・資料篇』304頁

-案内記-

第十一番 龍松院

此御ゑいかは春の題にて、光明遍照のもんを詠給ふ [16]『浄土宗典籍研究・資料篇』322頁

-案内記-

第十三番 瀧山寺

此哥仁和寺法親王の御夢想當寺、くわんおんの御じげん [17]『浄土宗典籍研究・資料篇』332頁

-案内記-

第十七番 二尊院

此哥は二條関白康道公の御詠にて則御寺にほんしあり。[18]『浄土宗典籍研究・資料篇』343頁

-案内記-

第十九番 法然寺

額の御詠哥は世に傳へて熊谷が横取の名号をいふものなり。すなわち、御歌に [19]『浄土宗典籍研究・資料篇』356頁

-案内記-

第二十番 誓願寺と第二十一番 勝林寺の途中

相國寺の、内に、松嶋軒といふ。きやうないに池あり。法然水といふ。是大師の、いけのみづ、ひとの心と、詠じ玉いし、きうせきなり。[20]『浄土宗典籍研究・資料篇』360頁

-案内記-

このように、『案内記』には詠歌に関する記述は十箇所あるが、第五番二階堂ではくりかえし説いているので、九ヶ寺につき言及があり、他の十六ヶ寺については何も言っていない。

そこで自詠のことについて見るに、第十三番と第十七番は、それぞれ仁和寺法親王と二條康道公の名を挙げており、大師の自詠でないことを示している。 (なお二條関白康道公と『案内記』にはあるが二條康道は摂生ではあったが関白にはならなかった。)[21]山川出版社『日本史要覧』58頁

それでは、法然上人の自詠でない詠歌がなぜ採用されたのだろうか。國枝利久教授は前掲書において自詠でないとされる八首について簡単にふれられているのでここで引用させていただく。その中、第十三番と第十七番は霊沢自身が自詠でないことを記述しているので、ここでは省く。

一番の詠

熊谷蓮生の作か。『四十八巻伝』の巻一をふまえたこの詠、漆間徳定師は『法然上人御事蹟謡曲解説』において熊谷蓮生の作としている。

-霊場寺院に付せられた和歌について-

四番の詠

『如来院略縁起』(享保七年三月三日)は、法然上人の詠としている。

-霊場寺院に付せられた和歌について-

十番の詠

寺伝は、知恩院の第二十六世、法念寺開山、保誉源派上人(天文二十一年寂)が、大永八年に、夢の中で法然上人より賜った作としている。

-霊場寺院に付せられた和歌について-

十五番の詠

『拾遺和歌集』(巻二十・一三四四)は、「市門にかきつけて侍りける」と題し、空也上人の詠として採っている。ただし、初句「ひとたびも」

-霊場寺院に付せられた和歌について-

二十番の詠

『拾遺和歌集』(巻二十・一三四三)は「極楽をねがひてよみ侍りける」と題し、仙慶上人の詠として採っている。『釈教歌詠全集』(第五巻)の注者が「空也上人の歌。千載集に出づ」としているのは誤りである。なお、『拾遺和歌集』の巻二十に相並んで採られている「ひとたびも」、「極楽は」の二首が二十五霊場寺院に付されているのは注目すべきであろう。

-霊場寺院に付せられた和歌について-

二十五番の詠

出典不明。[22]『浄土宗典籍研究・研究篇』788・789頁

-霊場寺院に付せられた和歌について-

このように國枝利久教授は述べられている。これらのうち第四番と第十番は、寺伝によるとしている。また第四番については梅溪昇博士が『浄土宗典籍研究』「法然遺跡寺院としての如来院の活動について」において、

当寺はすでに「享保の略縁起」に「身ト口ト」の歌を大師自詠で、しかも当寺ゆかりの歌としており、そのころより詠唱していたと思われる者をそのまま霊沢が採用したものである。[23]『浄土宗典籍研究・研究篇』885頁

-法然遺跡寺院としての如来院の活動について-

と述べておられる。このことは、霊沢が二十五霊場を選定するにあたり、既に法然上人ゆかりの寺として布教活動をしている寺院を優先して選定し、その寺院の指定した詠歌を採ったことを示している。

次ぎに第十五番と第二十番は、『拾遺和歌集』の巻二十の一三四四番と一三四三番の歌であり[24]岩波書店『新日本古典文学大系』第7巻『拾遺和歌集』394・395頁、並んで採用されている。しかし、霊沢は直接に『拾遺和歌集』のこの二首を採用したのであろうか。『勅伝』の注釈書である『円光大師行状画図翼賛』(以下『翼賛』)にはこの二首が別々のところで見られる。第十五番の「ひとこえも」は『翼賛』巻五十八僧尼之餘の空也上人の項に

市門ニカキツケ侍ケルトテ空也上人一度モ南無阿彌陀佛トイフ人ノ蓮ノ上ニノホラヌハナシ [25]『浄全』第16巻936頁

-翼賛-

とあり、第二十番の「極楽は」は『翼賛』巻三十の和歌のうち、「極楽をつとめてはやくいてたゝば 身のをはりにはまいりつきなん」の項に、

拾遺集仙慶法師極樂ハハルケキ程ト聞シカトツトメテイタル所ナリケリ是ヲ本歌トシ給ト見エタリ此歌千載集ニハ空也上人ノ歌トアリ袋草子ニハ千觀内供トアリ [26]『浄全』第16巻473頁

-翼賛-

とあって、霊沢は『拾遺和歌集』ではなく『翼賛』より採用したと思われる。二十五霊場と『翼賛』との関係については、阿川文正教授が『浄土宗典籍研究』「『円光大師御遺跡二十五箇所案内記』と法然上人諸伝記の関係について」において、

霊沢のこの『二十五箇所案内記』は、基本的には『勅伝』を主要資料とし、合わせて『勅伝』の注釈書である『翼賛』を参考にして、しかも縁起・寺伝・旧記を採用して制作されたことがわかる。[27]『浄土宗典籍研究・研究編』769頁

-『円光大師御遺跡二十五箇所案内記』と法然上人諸伝記の関係について-

と述べられている。詠歌に関して『翼賛』を見ると、『勅伝』所収の詠歌十五首の他に、五首について記されている。すなわち、第八番、第十二番、第十五番、第十七番、第二十番である。第八番は『高田本』『弘願本』『九巻伝』『十巻伝』にはあり『勅伝』には見られないが、『翼賛』巻三十五の注釈文には、

又九巻傳ニ此時上人詠歌マシマセルトテ極樂モカクヤアルランアラタノシハヤマイラバヤ南無阿彌陀佛 [28]『浄全』第16巻535頁

-翼賛-

とあり、第十二番は『十巻伝』にあり『勅伝』にはなく『翼賛』巻三十の注釈文には

十巻傳ニ上人御童形ニテ皇圓ノ室ニ侍リ給ヒ早ク出家ノ本意ヲ遂ハヤト思召サルカクテ六月中ノ申ノ日ト云ニ日吉ノ社ニ通夜シテ此事ヲ祈給トテ和クル神ノ光ノ影ミチテ秋ニカハラヌ短夜ノ月 [29]『浄全』第16巻479頁

-翼賛-

とある。第十五番と第二十番は前出のとおりである。第十七番は法然上人の自詠ではなく二條康道の詠として採られているが、『翼賛』巻五十の注釈文には

二條ノ攝政關白康道公禮紙ニ縁起ヲ略書シ和歌ヲ添給フ足曳ノ山鳥ノ尾ノシタリ尾ノ永々シ世ヲイノルコノテラ [30]『浄全』第16巻753頁

-翼賛-

とあり、『翼賛』には『勅伝』所収の詠歌十五首の他に、五首について記されている。このことは、霊沢が詠歌の選定にあたり、『翼賛』を参照し、『翼賛』に導かれて法然上人の自詠でない第十五番と第二十番を採用したと考えられる。しかしながら、なお、第二十番は法然上人の和歌、「極楽へつとめてはやくいてたゝば 身のをはりにはまいりつきなん」を採らず、本歌の「極樂ハハルケキ程ト聞シカトツトメテイタル所ナリケリ」を採ったのか疑問が残る。ここにおいて、筆者は謡曲『誓願寺』を提示したい。この曲は寛正5年(1464)に最も早い上演記録を有するので、霊沢の時代には世に知られた曲であるとおもわれる。この曲の中に

真如の月の西方も、爰を去る事遠からず、唯心の浄土とは、誓願寺を拝むなり。 [31]岩波書店『新日本古典文学大系』第57巻『謡曲百番』551頁

-謡曲『誓願寺』-

とあり、本歌の方がこの句に近いことから、霊沢が本歌の方を採用したとも考えられる。詠歌の選定にあたり、霊沢は謡曲を参照したと思われる。

第三番は『高砂』のなかの「松もむかしの友ならで[32]岩波書店『新日本古典文学大系』第57巻『謡曲百番』4頁」の句を、「ちぎりし友」と関連させ、第九番は『當麻』のなかの「有難や、尽虚空界の荘厳は、眼は雲路に赫き[33]岩波書店『新日本古典文学大系』第57巻『謡曲百番』197頁」の句を「浄土の荘厳見るぞ」と関連させたものと思われる。

最後に第一番と第二十五番について考えてみたい。第一番について、國枝利久教授は、漆間徳定師の『法然上人御事蹟謡曲解説』において熊谷蓮生の作としていることを引用されているが、本書は1931年刊であり、出典を確認できない。第二十五番については出典不明とされている。

阿川文正教授は『前掲書』において、

作者はこの一々の詠歌の選定にあたって、法然上人の伝記類、特に『勅伝』を中心として、その中にある多くの歌の中から、それぞれの寺にふさわしいものを選んだと思われる。これらの和歌は上人の自作を中心とし、また他者の作もとりあげてある。そしてそれがないところは、その寺院にふさわしいものを作ったことも考えられる。[34]『浄土宗典籍研究・研究編』778頁

と述べられ、霊沢が作った可能性を示唆されている。筆者はこの二首をその視点で検討してみる。まず第一番の詠歌の「両幡」「椋の木」の語は『勅伝』では、

たかき椋の木あり。白幡二流とびきたりて。その木すゑにかゝれり。(中略)これより彼木を。両幡の椋の木となづく。[35]『浄全』第16巻110頁

-勅伝-

とあり『案内記』には

天よりしらはたふたながれ、くだりかゝりし、無言の樹も今にひこばへしげりてあり。[36]『浄土宗典籍研究・資料編』263頁

-案内記-

とあって、詠歌「両幡の、天降ります椋の木は、代々にくちせぬ、法の師のあと。」が導き出されたと考えられる。第二十五番の「弥陀の本願」の語は『勅伝』では、

延暦寺東塔 竹林房靜嚴法印。吉水の禅房にいたりて。いかかして此たひ生死をはなれ候へきとの給けれは。源空こそ尋申たく侍れと答申されけるに。(中略)定めて安立の義候らんと申されるは。源空は彌陀の本願に乘して。極楽の往生を期する外はまたく知ることなしと。[37]『浄全』第16巻221頁

-勅伝-

とあり『案内記』には

本堂の地則大しの御舊住。吉水の御坊なり。[38]『浄土宗典籍研究・資料編』372頁

-案内記-

とあって、詠歌「草も木も、枯たる野べに唯ひとり、松のみ残る弥陀のほんぐわん。」が導き出されたと考えられる。

このように、この二首は『勅伝』におけるこの二ヶ寺に関する記事が『案内記』の記述となり、詠歌が導き出されたとみることができる。それゆえ、『案内記』の作者霊沢の作である可能性がでてきた。

以上、法然上人二十五霊場の詠歌について、自詠かどうか、自詠でない場合にはどのような理由でその歌が採用されたのかをみてきた。その結果、すべてが自詠ではなく、さまざまの理由でその寺院の詠歌が選定され、第一番と第二十五番は霊沢作の可能性が考えられることがわかった。

追記

平成十二年九月十三日の学術大会発表当日、松濤基道氏よりのご教示により、第二十五番の詠歌は『浄宗護国篇』の「觀智國師傳」のなかにおいて、観智国師の詠まれた歌として記されていることを知った。氏のご指摘を感謝申し上げるとともに、今後の検討課題とさせて頂く。

凡例

←左端が紺色の部分はご詠歌です。

また、右下部分に『-ご詠歌-』と表示してあります↓

-ご詠歌-

←左端が赤色の部分は『円光大師御遺跡二十五箇所案内記』(『案内記』)から引用した文章です。

また、右下部分に『-案内記-』と表示してあります↓

-案内記-

←左端が深緑色の部分は『円光大師行状画図翼賛』(『翼賛』)から引用した文章です。

また、右下部分に『-翼賛-』と表示してあります↓

-翼賛-

←左端が青緑色の部分は『法然上人行状絵図』(『勅伝』)から引用した文章です。

また、右下部分に『-勅伝-』と表示してあります↓

-勅伝-

←左端が紫色の部分は、上記の書籍以外から引用した文章です。

また、右下部分に引用文献が表示してあります↓

-文献名-

数字( 1), 2), 3), 4), 5)…)は、マウスカーソルを合わせると解説が表示されます。
(ひらがなには漢字の、漢字には旧かなの読みが表示されます)

脚注

脚注
1 『藤堂恭俊博士古稀記念・浄土宗典籍研究・資料篇』(以下『浄土宗典籍研究・資料篇』)253頁
2 『藤堂恭俊博士古稀記念・浄土宗典籍研究・研究篇』(以下『浄土宗典籍研究・研究篇』)787頁
3 『浄土宗全書』(以下『浄全』)第16巻222頁
4 藤堂恭俊「法然上人遺跡二十五箇所巡拝に関して」・『講座日本の巡礼』第二巻聖蹟巡礼・247頁
5 『浄土宗典籍研究・研究編』789・790頁
6 『浄全』第17巻200頁
7 『浄全』第17巻296頁
8 『昭和新修法然上人全集』1144頁
9 『昭和新修法然上人全集』1178頁
10 『浄全』続第8巻342頁
11 『浄土宗典籍研究・資料篇』290頁
12 『浄土宗典籍研究・資料篇』293頁
13 『浄土宗典籍研究・資料篇』295頁
14 『浄土宗典籍研究・資料篇』298頁
15 『浄土宗典籍研究・資料篇』304頁
16 『浄土宗典籍研究・資料篇』322頁
17 『浄土宗典籍研究・資料篇』332頁
18 『浄土宗典籍研究・資料篇』343頁
19 『浄土宗典籍研究・資料篇』356頁
20 『浄土宗典籍研究・資料篇』360頁
21 山川出版社『日本史要覧』58頁
22 『浄土宗典籍研究・研究篇』788・789頁
23 『浄土宗典籍研究・研究篇』885頁
24 岩波書店『新日本古典文学大系』第7巻『拾遺和歌集』394・395頁
25 『浄全』第16巻936頁
26 『浄全』第16巻473頁
27 『浄土宗典籍研究・研究編』769頁
28 『浄全』第16巻535頁
29 『浄全』第16巻479頁
30 『浄全』第16巻753頁
31 岩波書店『新日本古典文学大系』第57巻『謡曲百番』551頁
32 岩波書店『新日本古典文学大系』第57巻『謡曲百番』4頁
33 岩波書店『新日本古典文学大系』第57巻『謡曲百番』197頁
34 『浄土宗典籍研究・研究編』778頁
35 『浄全』第16巻110頁
36 『浄土宗典籍研究・資料編』263頁
37 『浄全』第16巻221頁
38 『浄土宗典籍研究・資料編』372頁