第3回 佛教論叢第48号掲載

本稿は、大阪の順阿霊沢(以下霊沢)によって、明和3年(1766)秋彼岸に刊行された『円行大師御遺跡二十五箇所案内記』(以下『案内記』)にもとづき、それぞれの札所霊場の詠歌がどのような理由で、一々の寺院に配置されたのであろうかを検討するもので、前回の続きである。[1]『佛教論叢』第46号126頁~131頁

検討にあたっては、霊沢が二十五霊場を選定する際に参照したと思われる資料である、『法然上人行状絵図』(以下『勅伝』)や、『勅伝』の注釈書である『円光大師行状画図翼賛』(以下『翼賛』)と霊沢の『案内記』を対比して見ることとする。(本稿は二十五霊場のうち第十三番から第十八番までとする。なお、掲載の詠歌は『案内記』の語に従った。)

△第十三番山城清水おくのゐんやましろきよミづ奥の院 瀧山寺りゃうさんし・たきやまてら 阿弥陀堂

清水きよミづの、滝へまいれバ、おのづから、現世安穏後生極楽げんせあんおんごしゃうこくらく[2]『藤堂恭俊博士古稀記念・浄土宗典籍研究・資料篇』(以下『浄土宗典籍研究・資料篇』)332頁

-ご詠歌-

の詠歌は『勅伝』巻13に記載されている。そこには

仁和寺入道親王の御夢想に。觀音みつからのたまわく。清水寺の瀧は過去にもこれありき。現在にもこれあり。未来にも又これあるへし。是即大日如来の鑁字の智水なりとて。一首を詠し給ふ。

清水の瀧へまいればをのつから現世安穏後生極樂[3]『浄土宗全書』(以下『浄全』)第16巻222頁

-勅伝-

とあり、『案内記』には、

此哥にん

和寺法わじはう

親王しんわう御夢想こむそう當寺、

くわんおんくわんおんの御じげん示現[4]『浄土宗典籍研究・資料篇』332頁

-案内記-

とあって、『勅伝』に基づき「清水」の語を含むこの歌が選定されたものと考えられる。

 なお、この歌の作者仁和寺の法親王とは『翼賛』には

此ノ入道親王ハ三條ノ院御子大室と號ス寛弘八年十月五日親王ニ立ツ御歳七歳俗名師明寛仁二年八月二十九日出家法名性信御歳十四大僧正濟信ヲ師トナス[5]『浄全』第16巻226頁

-翼賛-

とあり法然上人より120年前の人である。

△第十四番小松谷御坊こまつだにこぼう 正林寺しゃうりんじ

とせふる、小松こまつのもとをすみにて 無量寿仏むりやうじゆぶつの、むかへをぞまつ。[6]『浄土宗典籍研究・資料篇』335頁

-ご詠歌-

の詠歌は『勅伝』『翼賛』に記載されている。『翼賛』には、

●此歌一説ニ小松殿ニテ詠給フト也小松殿ハ平家物語長門本ニ六波羅ノ東大道ヲ隔ツ[7]『浄全』第16巻476頁

-翼賛-

とあり『案内記』には

近年義山上人きんねんぎざんしやうにんの弟子惠空法師ゑくうほうしさいこん再建して今の所に、御影堂ミゑいだうさうりうせり。昔の御坊ごほうハ今の所よりすこし西南がわにしミなミ側、民家の裏也[8]『浄土宗典籍研究・資料篇』336頁

-案内記-

とあって、小松殿を他所に再建した寺であることを明かしているが、「小松殿」ゆかりの寺であるので、この歌を配置したと考えられる。

第十五番たいしゅうごはん同國伏見宝海山ふしミほうかいざん 源空寺げんくうじ

一聲ひとこへも、なむあミた仏南無阿弥陀ふと、いふ人の、はちすうへに、のぼらぬハなし。[9]『浄土宗典籍研究・資料篇』337~338頁

-ご詠歌-

の詠歌は、『勅伝』には記載されていないが『翼賛』巻五十八僧尼之餘の空也上人の頃に

市門ニカキツケ侍ケルトテ空也上人一度モ南無阿弥陀仏トイフ人ノ蓮ノ上ニノホラヌハナシ[10]『浄全』第16巻936頁

-翼賛-

とある。また『案内記』には

大師南都だいしなんとより、御帰京こきやうせつたちより立寄玉ふ草庵さうあんなり。そのときの住僧ぢうそうハ、れんじやう蓮乗坊忍空ほうにんくうとて、もとは、三井寺いてらしゆとなりしが、此所へいんとんせり。[11]『浄土宗典籍研究・資料篇』338頁

-案内記-

とある。れんじやう坊忍空は、歴史的仮名遣いからみて、蓮上坊忍空と書くことが想像される。「蓮の上」という語が掛けられてこの詠歌が選ばれたと考えられる。なお、第1句「一聲も」は本来「一度も」であったものが、漢字のくずし方により、誤用されたと推定される[12]『漢字くずし方辞典』103頁・327頁

第十六番だいじゅうろくばん同國乙訓郡どうこくおとくにこおり報国山粟生野ほうこくさんあおの 光明寺

つゆの身ハ、こゝかしこにて、きへぬとも、心ハおなじ、花のうてなぞ。[13]『浄土宗典籍研究・資料篇』341頁

-ご詠歌-

の詠歌は『勅伝』巻三十四において、四国流罪の際、兼実禅閣の消息の返事として詠まれ、この歌のあとに

鳥羽のみなみの門より、川船にのりてくだりたまふ[14]『浄全』第16巻531頁

-勅伝-

と本文があり、『翼賛』の注釈には

鳥羽南門ハ下鳥羽ナリ門ハ廃絶シヌ今一念寺トテ小堂アリ渡海塲ト云所此ノ邊ニアリ[15]『浄全』第16巻531頁

-翼賛-

とあり、詠まれた場所については特定できない。またこの詠歌が光明寺に配された理由には2点考えられる。すなわち「身が消える」と「花の臺」である。


第一の「身が消える」とは、『案内記』では、

大師たいし御尊骸ごそんがいを、葬送荼毘さうそうたびしたてまつりし、霊場れいじやうなり。[16]『浄土宗典籍研究・資料篇』341頁

-案内記-

とあり、「身が消える」という理由から「荼毘所」であるこの寺に配したと考えられる。

第二の「花の臺」とは、『案内記』では、

此寺のおくに、廣谷ひろたにといふ所にそのかミ、大師たいし御ざいせご在世のむかし、源平けんへいの乱をさけ、かんきよ閑居ませしきうち旧地也。[17]『浄土宗典籍研究・資料篇』341頁~342頁

-案内記-

とある。光明寺の奥に西国三十三観音第二十番札所の善峰寺があり、その北に隣接する三鈷寺には西山派派祖証空上人の廟所「華台廟[18]『浄土宗大辞典』第2巻46頁」があり、また次の札所、二尊院は寺号を「花臺寺[19]『浄土宗典籍研究・資料篇』343頁」といい、『案内記』の

湛空房たんくうぼうと、船中せんちゅうにて、つくらせ給ふ、はりこの御ゑい、今ハ粟生あを光明寺くわうめうじにおさまる。[20]『浄土宗典籍研究・資料篇』345頁

-案内記-

という文章から「花の臺」と光明寺の関係で配したとも考えられる。

第十七番だいじゅうしちばん小倉山花臺寺おくらやまけたいし 二尊院にそんいん

あしびきの、やまどりのをの、しだりをの、なかながし世を、いのる此てら[21]『浄土宗典籍研究・資料篇』343頁

-ご詠歌-

の詠歌は『勅伝』に記載なく、『翼賛』巻五十の注釈文には

足曳ノ御影ハ月輪ノ禪閣御歸依ノ餘リニ上人ノ眞影ヲ寫サント仰コトアリケリ(中略)

二條ノ攝政關白康道公禮紙ニ縁起ヲ略書シ和歌ヲ添給フ足曳ノ山鳥ノ尾ノシタリ尾ノ永々シ世ヲイノルコノテラ[22]『浄全』第16巻753頁

-翼賛-

とあり、「足曳の御影」の「足曳」の語が含まれていることから、この歌を選んだものと考えられる。

なお、『案内記』には

此哥ハ二條関白康道公にでうくわんぱくやすミちこうの御詠ニて則御寺にほんし本紙あり。[23]『浄土宗典籍研究・資料篇』343頁

-案内記-

と記述されているが、二条康道は関白に任命されたことはなく、摂政のみであった[24]『日本史要覧』58頁。それゆえ『案内記』の「二条関白康道公」は誤りである。

第十八番だいじうはちばん鎌倉山 月輪寺ぐわつりんし・つきのわてら

月影つきかげのいたらぬ里は、なけれとも、なかむる人のこゝろにぞすむ。[25]『浄土宗典籍研究・資料篇』347頁

-ご詠歌-

の詠歌は『勅伝』『翼賛』に記載されているが、場所に関する記述はない。ではなぜこの詠歌が月輪寺に配されたのであろうか。

『案内記』には、

そうして、月の輪といふ所、都のへんに、三ヶ所有。一にハゑいざん叡山のふもと、しゆがくじ修学寺のへん、今ハでんぢ田地あざな字名となりぬ。清輔きよすけ袋草子ふくろさうしにうたなど出たり 二にハ、今のところ三にハ、東福寺とうふくじ北に、月の輪殿荘園つきのわとのしやうゑんきうち旧地なり。すなはち、月輪殿つきのわどのはかしよ墓所今熊野いまくまのにあり。元祖大師くわんそだいし頭光づくわうをけんじ玉ふ。はしの池も、今ハ跡たへて、その所もしれがたし月のの御きうせき旧跡、この所にけつすれど、御跡へれバ、今のあたご愛宕の月のを、二十五ばんの、内にいれ、額をかけたり。[26]『浄土宗典籍研究・資料篇』348頁~349頁

-案内記-

とある。このことは、二十五霊場の選者である霊沢が、「月影」の詠歌を「月」という言葉から、九条兼実の邸宅であった「月輪殿」の地、すなわち東福寺北の旧地に配置したかったが、そこには当時、「頭光踏蓮の橋の池」など、旧跡を示すものがないので、本来旧跡ではないが「月輪」の名のある寺として愛宕山の「月輪寺」を霊場としたことを明かしている。『案内記』の記述のもととなる『翼賛』には、

凡ソ洛陽近邊ニ月ノ輪ト名ツクル處三所アリ其ノ一ハ愛宕山ノ東の半腹ニアリ鎌倉山月輪寺ト號ス人皇四十九代光仁帝ノ御宇天應元年慶俊僧都ノ草創唐土ノ五臺山ニナソラヘテ五岳寺ヲ建ラレシ是レ其ノ第一ニシテ大鷲ノ峰ト名ツク眞統上人空也上人ナト住シ給シトソ其二ハ叡山ノ西ノ麓修學院ノ邊ニ古ヘ月輪寺ト云アリキ今ハ寺ハ絶テ田地ノ字トナレリ又扶桑略記本朝文粹日本記略ニ月林ト書タルモ同寺ナリトソ其ノ三ハ東福寺ノ東ニアリ兼實公ノ月輪殿此ノ所ナリ[27]『浄全』第16巻209~210頁

-翼賛-

とあり、九条兼実の月輪殿は東福寺の辺りであることを説いている。それにもかかわらず何故霊沢は愛宕山月輪寺を霊場としたのか。このことについて筆者は二つの問題点を挙げたい。

第一の問題点。

東福寺の辺りに法然上人の霊場を再興する考えはなかったのか。つまり「霊場再興」。

第二の問題点。

愛宕山月輪寺を「月輪」という言葉以外の関係で選定したのか。つまり「愛宕山選定」。

第一の「霊場再興」については、更に二つの事例を示したい。一つは「十四番小松谷正林寺」二つは「番外錦織村源空寺」である。小松谷正林寺は『案内記』にも、

小松のおとど、しけもり重盛公のきうせき旧跡燈籠堂とうらうだうの跡。大師の御住坊ぢうはうはい所へおもむき玉ふもこのばうより、鳥羽とば作道つくりみちよと川舟かわふねにめされしなり。近年義山上人きんねんぎざんしゃうにんの弟子、恵空法師ゑくうほうしさいこん再建して今の所に、御影堂ミゑいだうさうりうせり。昔の御坊ごほうハ今の所よりすこし西南がわ、民家の裏也[28]『浄土宗典籍研究・資料篇』336頁

-案内記-

とあって小松殿の邸宅の跡地近くに再建されたことを述べている。また、錦織村源空寺は『案内記』には

むかしハ一宇を建立こんりうして、源空寺けんくうじと号せしが、今ハたいてん退転し、草藪の中に石のみ残りて、そのいしおもて源空寺けんくうじと銘ぜり。この案内記あんないきの作者、此所をさいこう再興ねがひあり。
[29]『浄土宗典籍研究・資料篇』329頁~330頁

-案内記-

とあって霊択自身が再興の願いがあることを明かしている。すなわち、再興した所を霊場とし、いまだ再興していない所はそれを希望しているのである。ならば、月輪殿の霊場の再興を考えても良かったのではないかという問題が残る。霊択から半世紀後の名村愚仙は、自著『円光大師御遺跡四十八所口称一行巡拝記』のなかで、

尚願はくは、東福寺東辺に隠没せし、月輪禅閣の御旧跡を起立し給ひ、頭光山何寺と号し本堂を月輪殿と名づけ、御遺跡の寺となし給ハらん事愚がふかき願なり。ひとへに後人の女性をこひねがふものなり。[30]『佛教文化研究』第20号25頁/伊藤唯真氏「近世における法然上人遺跡巡拝について」

-円光大師御遺跡四十八所口称一行巡拝記-

とあるが、この願いは実現されていない。

第二の「愛宕山選定」については、「丹後久美浜本願寺」のことが考えられる。『案内記』には「月輪寺」の記述に続き、「番外梅か畑慰樵菴」と「番外久美寺本願寺」が記されている。そして「慰樵菴」から「久美浜本願寺」へ行くには、

またたんご丹後へゆく人にハ、あたこ愛宕のかねのとりゐ鳥居のそばを、右へかめミちへでる。[31]『浄土宗典籍研究・資料篇』350頁

-案内記-

とあり、愛宕から亀山道、そして丹後久美浜へ誘導している。そのわけは『案内記』によれば、

此寺ハ、御たいせつ大切の、御きうせき旧跡なれども、世にる人まれなり。御傳本ごてんほんにも、出ず。翼賛よくさんにもくわしくちうなし。おのづから、さんけい参詣の人も、まれなるゆへ、しゆんはいき巡拝記に、あらあら粗ゝしるしいだす。はんくわい番外にせしも、大阪のこうしゆ講衆ゑんほう遠方ゆへ、はぶきくれよとありしまゝ、ぜひ是非なく、ばんぐミ番組のぞきぬ。作者が心にあらず。心さしの方ハ、たつね玉ふべし。[32]『浄土宗典籍研究・資料篇』353頁~354頁

-案内記-

とあって、作者霊択としては、この久美浜本願寺を二十五霊場の一つに組み入れたかったことが伺われる。そのため、「月輪」の旧跡は東福寺辺りであることが決していながら、あえて愛宕山月輪寺を、道順の中継地として選定したのではないかと考えられる。以上二つの問題点により、「愛宕山月輪寺」に「月影」の詠歌が配されたと思われる。

(第十九番以後は次回とする)

凡例

←左端が紺色の部分はご詠歌です。

また、右下部分に『-ご詠歌-』と表示してあります↓

-ご詠歌-

←左端が赤色の部分は『円光大師御遺跡二十五箇所案内記』(『案内記』)から引用した文章です。

また、右下部分に『-案内記-』と表示してあります↓

-案内記-

←左端が深緑色の部分は『円光大師行状画図翼賛』(『翼賛』)から引用した文章です。

また、右下部分に『-翼賛-』と表示してあります↓

-翼賛-

←左端が青緑色の部分は『法然上人行状絵図』(『勅伝』)から引用した文章です。

また、右下部分に『-勅伝-』と表示してあります↓

-勅伝-

←左端が紫色の部分は、上記の書籍以外から引用した文章です。

また、右下部分に引用文献が表示してあります↓

-文献名-

数字( 1), 2), 3), 4), 5)…)は、マウスカーソルを合わせると解説が表示されます。
(ひらがなには漢字の、漢字には旧かなの読みが表示されます)

脚注

脚注
1 『佛教論叢』第46号126頁~131頁
2 『藤堂恭俊博士古稀記念・浄土宗典籍研究・資料篇』(以下『浄土宗典籍研究・資料篇』)332頁
3 『浄土宗全書』(以下『浄全』)第16巻222頁
4 『浄土宗典籍研究・資料篇』332頁
5 『浄全』第16巻226頁
6 『浄土宗典籍研究・資料篇』335頁
7 『浄全』第16巻476頁
8 『浄土宗典籍研究・資料篇』336頁
9 『浄土宗典籍研究・資料篇』337~338頁
10 『浄全』第16巻936頁
11 『浄土宗典籍研究・資料篇』338頁
12 『漢字くずし方辞典』103頁・327頁
13 『浄土宗典籍研究・資料篇』341頁
14 『浄全』第16巻531頁
15 『浄全』第16巻531頁
16 『浄土宗典籍研究・資料篇』341頁
17 『浄土宗典籍研究・資料篇』341頁~342頁
18 『浄土宗大辞典』第2巻46頁
19 『浄土宗典籍研究・資料篇』343頁
20 『浄土宗典籍研究・資料篇』345頁
21 『浄土宗典籍研究・資料篇』343頁
22 『浄全』第16巻753頁
23 『浄土宗典籍研究・資料篇』343頁
24 『日本史要覧』58頁
25 『浄土宗典籍研究・資料篇』347頁
26 『浄土宗典籍研究・資料篇』348頁~349頁
27 『浄全』第16巻209~210頁
28 『浄土宗典籍研究・資料篇』336頁
29 『浄土宗典籍研究・資料篇』329頁~330頁
30 『佛教文化研究』第20号25頁/伊藤唯真氏「近世における法然上人遺跡巡拝について」
31 『浄土宗典籍研究・資料篇』350頁
32 『浄土宗典籍研究・資料篇』353頁~354頁