私達吉水講講員は法然上人二十五霊場の御詠歌をお唱えさせて頂いています。

そこには法然上人がお詠みになられたお歌ばかりではなく、その他のお歌もあります。

また霊場の数はなぜ二十五なのでしょうか。

私の調べたところをここに述べさせて頂きます。

※下線の部分にカーソルを合わせると読みを表示します。

法然上人二十五霊場の始まり

法然上人二十五霊場は、今から約240年前、江戸時代の中頃、大阪難波城南にある恋西庵れんさいあんの住職、順阿霊沢じゅんなれいたく上人が『円光大師御遺跡えんこうだいしごゆいせき二十五箇所案内記』(以下『案内記』と略します)を出版したことに始まります。霊沢上人はこの本宗寺のまえがきで次のように記されています。

教えの流れを汲む者は、その源を知るべきである。私、霊沢は常々思っていました。他宗の人たちはその宗祖の遺跡を慕い、遠く海山を越えて巡礼しています。親鸞聖人弟子二十四輩、西国三十三観音、四国八十八ヶ所などは頷けることです。しかるに我が浄土宗の人たちの中には、よその巡礼をされています。嘆かわしいことです。宗祖法然上人のお誕生の地、ご入滅の場所を知らない方もいます。私の師僧である京都如来寺の廓誉順起上人は、法然上人の巡拝を考えられましたが、公務忙しく実現することができませんでした。法然上人の五百五十回忌も昨年奉修され、師僧の三十三回忌を来年にむかえます。師僧の宿願を空しくしないため、ここに一冊の本を出版して皆さんに案内することにしました。

このように、浄土宗の人の中にも法然上人の霊場を知らない人が多く、ましてや他宗の巡礼をされる人達がいることに対して、霊沢上人が、かねて師僧から教えられていた法然上人の遺跡霊場を世間に発表されたのです。

霊場の数はなぜ二十五なのか

ご遺跡は二十五箇所に限りませんが、楞厳経りょうごんきょうの中に二十五円通えんづうと言うことがありそれになぞらえて、数多くある霊場の中から選び出しました

と記されています。円通とは仏や菩薩の境地が円満にしてすべてに通じることを言います。法然上人のお弟子の勝法房が上人の肖像を描かれ、文をお願いしたところ、上人は、楞厳経の中にある二十五円通のうち、勢至菩薩の円通の文をお書きになられました。上人は勢至菩薩がこの世に現れたお姿であると、説かれています。このことから、二十五円通になぞらえて霊場の数が決められました。

霊場の順番はどうして決めたのか

霊場の順番は、お誕生の地を第一番とし、ご入滅の所を最後の二十五番としていますが、途中の順番は歩いて巡拝するので、法然上人のご生涯の経歴とは関係なく廻り易いように決めています。例えば、一番誕生寺の次にはご流罪の地高松へ行くようにです。

比叡山黒谷青龍寺はなぜ番外なのか

法然上人が比叡山で長く修行された黒谷青龍寺はなぜ番外なのでしょうか。それは江戸時代比叡山は女人禁制の所でしたので霊沢上人はやむなく番外にされました。しかし男子の参詣は勧められています

霊場の詠歌

霊場の詠歌について霊沢上人は『案内記』の中で、

二十五首の御詠歌は元祖大師ご自身がお詠みになられたものです。もっとも、そのお寺でお詠みになったのではありませんが、二十五の霊場を発起しましたので、西国巡礼歌のように詠歌額を掛けて世間に知らせたく思ったからです

と述べられて、詠歌は法然上人の自作であると述べられて、詠歌は法然上人の自作であること、詠歌と詠まれた場所は別であること、詠歌額をかけたことを示しています。

しかしながら詠歌の中には法然上人以外の作もあります。また、詠歌と詠まれた場所が一致するところもあります。

霊場詠歌の作者

霊場詠歌の殆どは法然上人の作ですが、中には法然上人以外の作があります。

第一番誕生寺の蓮生法師れんせいほっし、第十五番源空寺の空也くうや上人、第十七番二尊院の二条康道公、第十九番京都法然寺の真如堂の如来、第二十番誓願寺の空也上人、第二十五番知恩院の観智かんち国師です。

これら六首は霊場の縁故から、それにふさわしいお歌が選ばれました。

霊場詠歌の詠まれた場所

霊沢上人は「霊場の詠歌はそのお寺でお詠みになっていません」と言われていますが、第五番勝尾寺はその場所でお詠みになられたことが明らかにされています。

その他のお歌は、お詠みになられた場所がはっきりしなかったり、霊場にならなかった場所であったりします。そのために、色々な理由で各霊場のお歌を決められたと考えられます。

霊場詠歌が決められた理由

例えば第二番高松法然寺のお歌は、「高松の枝」の言葉と、地名の高松が重なることから決められたと考えられます。

第三番高砂十輪寺のお歌は、「ちぎりし友の」の言葉と、謡曲『高砂』の中にある藤原興風のお歌、「たれをかも知る人にせん高砂の松も昔の友ならなくに」の「友」が重なることからだと思われます。

第十八番月輪寺のお歌は「月影の」の言葉と、寺の名前「月輪」が重なることから決められたのでしょう。

第二十五番知恩院のお歌は増上寺第十二世観智国師の作です。『浄宗護国篇』という書物の中に、「弥陀本願」のお歌があります。徳川家康公は関ヶ原の戦いに出陣する前に、国師に面会し十念を授かりました。そして国師より、徳川家は元来松平家であり、浄土宗とは先祖代々円が深いこと、浄土の教えは他の教えが亡んでもなお残ること、松平氏も的が亡んでも長く安泰であることを説かれた後にこのお歌を頂戴しました。

それではなぜこのお歌が知恩院のお歌に決められたのでしょうか。それは法然上人が知恩院の地、もとの吉水よしみずの禅房に居られた時、天台の僧から質問され、「私は弥陀の本願に乗って極楽に往生を願うだけです」と答えられたことにより、「弥陀の本願」の言葉のあるこのお歌が知恩院のお歌に決められたと考えられます。

詠歌をお唱えする心

霊沢上人は多くの人が霊場巡拝されることを望み、多くの人が詠歌を唱えられることを願われたと思います。私達吉水講院は先人のご労苦を偲び、法然上人を慕い詠歌をお唱えして行きましょう。

凡例

←左端が紺色の部分はご詠歌です。

また、右下部分に『-ご詠歌-』と表示してあります↓

-ご詠歌-

←左端が赤色の部分は『円光大師御遺跡二十五箇所案内記』(『案内記』)から引用した文章です。

また、右下部分に『-案内記-』と表示してあります↓

-案内記-

←左端が深緑色の部分は『円光大師行状画図翼賛』(『翼賛』)から引用した文章です。

また、右下部分に『-翼賛-』と表示してあります↓

-翼賛-

←左端が青緑色の部分は『法然上人行状絵図』(『勅伝』)から引用した文章です。

また、右下部分に『-勅伝-』と表示してあります↓

-勅伝-

←左端が紫色の部分は、上記の書籍以外から引用した文章です。

また、右下部分に引用文献が表示してあります↓

-文献名-

数字( 1), 2), 3), 4), 5)…)は、マウスカーソルを合わせると解説が表示されます。
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