目次
一、二十五しゆの御ゑいかは、大しの御じゑいなり。もつともその寺々にて、詠じ給ふことにはあらねど、二十五のばんぐみをほつきゆへに、其御寺々へ御ゑい哥のがく、かけてしらしむ。是孤僧がおもひより、かのせけんにもてあそぶ、西國じゆんれいうたに、なぞらふものなり。[1]『藤堂恭俊博士古稀記念・浄土宗典籍研究・資料篇』(以下『浄土宗典籍研究・資料篇』)256頁
-案内記-
とあり、詠歌に関して
1・法然上人の自詠であること
2・現地寺院にて詠じたものではないこと
3・詠歌額をかけたこと
-案内記-
を明かしている。
1の点については、既に発表した[2]典籍研究・資料篇』(以下『浄土宗典籍研究・資料篇』)256頁 ので、本稿では2について、つまり現地寺院で詠まれた歌はなかったのか、また、そうでない場合にはどのような理由でその歌が、一々の寺院に配置されたのかを検討してみたい。はじめに、現地寺院で詠まれたかどうかについてみるに、霊沢の『案内記』には歌の詠まれた場所であることを明示しているのは二ヶ所ある。第五番勝尾寺二階堂と番外法然水である。
第五番勝尾寺二階堂では、
洛中ハいまた、其はゞかりありとて、此山の西の谷に、かんきよましますこと、四か年の間なり。此御詠歌も其折から、口ずさミ給ふ。[3]『浄土宗典籍研究・資料篇』293頁
御ゑい哥ハこのさうあんにて、如来のらいかうをまちわびて、口遊ひましませしなり。[4]『浄土宗典籍研究・資料篇』295頁
-案内記-
とあり、番外法然水では、
相國寺の、内に、松鴎軒といふ、きやうないに、池あり。法然水といふ。是大師のいけのミづ、ひとの心と、詠じ玉ひし、きうせきなり。[5]『浄土宗典籍研究・資料篇』360頁
-案内記-
とある。そして、他の詠歌については詠まれた場所であるかどうかを明示していない。
つぎに、現地寺院で詠まれていない歌はどのような理由で一々の寺院に配置されたのであろうか。先の詠歌を含め順番に検討していくこととする。検討にあたっては、霊沢が二十五霊場を選定する際に参照したと思われる資料である、『法然上人行状絵図』(以下『勅伝』)や、『勅伝』の注釈書である『円光大師行状画図翼賛』(以下『翼賛』)と霊沢の『案内記』を対比して見ることとする。
(本稿は二十五霊場のうち前半の第十二番までとする。なお、掲載の詠歌は『案内記』の語に従った。)
両幡の、天降ます椋の木は、代々にくちせぬ、法の師のあと。[6]『浄土宗典籍研究・資料篇』263頁
-ご詠歌-
たかき椋の木あり。白幡二流とびきたりて。その木ずゑにかゝれり。(中略)
これより彼木を両幡の椋の木となづく。[8] 『浄土宗全書』(以下『浄全』)第16巻110頁
-勅伝-
とあり『案内記』には
天よりしらはたふたながれ、くだりかゝりし、無苦の樹も今にひとばへしげりてあり。[9]『浄土宗典籍研究・資料篇』263頁
-案内記-
とあって、「両幡」「椋の木」の語が共通している。それゆえ、これらの語を織り込んで、誕生寺にふさわしい歌を作った可能性が考えられる。
おぼつかな、たれかいゝけむ小松とハくもをさゝふる、たかまつのえだ。[10]『浄土宗典籍研究・資料篇』267・268頁
-ご詠歌-
の詠歌は『勅伝』『翼賛』に記載されている。『翼賛』には、
●子高松ハ順和名第九(ニ)云讃岐國那珂郡子松(古萬都)山田郡高松(多加萬都) [11]『浄全』第16巻477頁
-翼賛-
の記述に従い、配置されたと思われる。しかしながら、『案内記』にはこの詠歌が現地詠であるという記述はない。
うまれては、まづおもひ出ん、ふるさとに、ちぎりしとものふかきまことを。[12]『浄土宗典籍研究・資料篇』274頁
-ご詠歌-
の詠歌は『勅伝』『翼賛』に記載されているが、『翼賛』には場所に関する記述はない。また『案内記』にもこの詠歌について言及されていない。ところが、謡曲『高砂』には、
誰をかも知る人にせん高砂の、松もむかしの友ならで[13]岩波書店『新日本古典文学大系』第57巻『謡曲百番』4頁
-謡曲『高砂』-
とあり、「友」の語を掛けて、この寺に配したと考えられる。
身と口とこころの外の弥陀なれば、われをはなれて、となへこそすれ。[14]『浄土宗典籍研究・資料篇』287頁
-ご詠歌-
の詠歌は『勅伝』『翼賛』に記載されていない。また『案内記』には、
御詠哥ハ今の額にかけし通り、此御詠哥にハ、ふかき御こゝろの有よし。[15]『浄土宗典籍研究・資料篇』290頁
-案内記-
とあるが、現地と関係する語句はない。梅溪昇博士が『浄土宗典籍研究』「法然遺跡寺院としての如来院の活動について」において、
当寺はすでに「享保の略縁起」に「身ト口ト」の歌を大師自詠で、しかも当寺ゆかりの歌としており、そのころより詠唱していたと思われるものを、そのまま霊沢が採用したものである[16]『藤堂恭俊博士古稀記念・浄土宗典籍研究・研究篇』885頁
-法然遺跡寺院としての如来院の活動について-
と述べられており、既存の詠歌が配されたことがわかる。
柴の戸に、あけくれかゝる、しら雲を、いつむらさきの、色に見なさん。[17]『浄土宗典籍研究・資料篇』292・293頁
-ご詠歌-
の詠歌は『勅伝』『翼賛』に記載されている。『翼賛』には、
●此歌玉葉集ニ入タリ大師勝尾寺ノ西谷ノ艸菴ニテノ歌ナリ [18]『浄全』第16巻472頁
-翼賛-
とあり、『案内記』には、
洛中ハいまた、其はゞかりありとて、此山の西の谷に、かんきよましますこと、四か年の間なり。此御詠歌も其折から、口ずさみ給ふ。[19]『浄土宗典籍研究・資料篇』293頁(中略)
御ゑい哥ハこのさうあんにて、如来のらいかうをまちわびて、口遊ひましませしなり。[20]『浄土宗典籍研究・資料篇』295頁
-案内記-
とあって、霊沢は法然上人が現地で詠まれたとして、この詠歌を配している。
阿弥陀仏と、西に心ハ空蝉のもぬけはてたる、こゑぞすゞしき。[21]『浄土宗典籍研究・資料篇』298頁
-ご詠歌-
の詠歌は『勅伝』『翼賛』に記載されているが、『翼賛』には場所に関する記述はない。
『案内記』には、
此御ゑい哥は、うつせみのめうごうとて、御じき筆、今泉堺超善寺にあり。[22]『浄土宗典籍研究・資料篇』298頁
-案内記-
とあり場所との関係はない。霊場名を表すところに
第六番 (四天王寺西門北側引声堂) 念佛堂[23]『浄土宗典籍研究・資料篇』298頁
とあって、「引聲堂」の「声」と「こゑぞすゞしき」の「声」が共通することから、この寺に配置されたと考えられる。
阿弥陀仏と、西に心ハ空蝉のもぬけはてたる、こゑぞすゞしき。[24]『浄土宗典籍研究・資料篇』302・303頁
-ご詠歌-
の詠歌は『勅伝』『翼賛』に記載されており、『翼賛』には場所に関する記述として、
是レ讃州ニテ西忍カ舘ニ入御ノ時ノ事トソ又或説ニ此歌ハ後白河法皇與ニ上人一日想觀修セラレシ時天王寺ノ西門ノ東北岸に新別所トテ一宇ノ堂四間四面ヲ建立シ給フ其堂ノ西ノ小壁大師御筆ニ名號アソハシテ其傍ニ此ノ歌ヲ書給フト云
[25]『浄全』第16巻472・473頁
とあり、詠地が二ヶ所説かれている。『案内記』には、
大師の御ゑい哥六字のめうこうの、かたわらにかき玉ふ。難波名号としやうす。本堂の前に石碑、たちて、其の傳記あり[26]『浄土宗典籍研究・資料篇』304頁
-案内記-
とあって、霊沢は『翼賛』の示す二ヶ所のうち、「難波名号」を存すこの寺を選定したと考えられる。
極楽も、かくやあらまし、あらたのし、はやまいらはや、南無阿弥陀仏。[27]『浄土宗典籍研究・資料篇』308・309頁
-ご詠歌-
の詠歌は『勅伝』巻三十五には、
讃岐國鹽飽の地頭。駿河權守高階保遠入道西忍か舘につき給にけり。[28]『浄全』第16巻535頁
-勅伝-
とあり、『翼賛』には、
鹽飽ハ扇島小豆島ト相並ヘル小島ナリ(中略)又九巻傳ニ此時上人詠歌マシマセルトテ極樂モカクヤアルランアラタノシハヤマイラバヤ南無阿彌陀佛[29]『浄全』第16巻535頁
-翼賛-
とある。『案内記』には、讃岐塩飽の西忍の館とには直接関連する語句を見ることができないが、
海上風波あらきゆへ、此浦へ船を寄せ玉ふ。[30]『浄土宗典籍研究・資料篇』309頁
-案内記-
とあり、このことと、塩飽が島であることから「船が着く」ことが連想され、この詠歌を配したと考えられる。
阿弥陀仏と、まふすばかりを、つとめにて、浄土荘厳、見るぞ嬉しき。[31]『浄土宗典籍研究・資料篇』317頁
-ご詠歌-
の詠歌は『勅伝』『翼賛』に記載されているが、『翼賛』には場所に関する記述はない。また『案内記』にもこの詠歌について言及されていない。ところが謡曲『當麻』には、
有難や、尽虚空海の荘厳は、眼は雲路に赫き[32]岩波書店『新日本古典文学大系』第57巻『謡曲百番』197頁
-謡曲『當麻』-
とあり、「荘厳」の語を掛けて、この寺に配したと考えられる。
「香久山や、麓の寺は、狭けれど、たかき御法を、ときてひろめむ。[33]『浄土宗典籍研究・資料篇』319頁
-ご詠歌-
の詠歌は『勅伝』『翼賛』に記載されていない。また『案内記』にも詠歌についての言及がない。したがって、寺伝のまま採用されたものと考えられる。
さへられぬ、光もあるを おしなへて、へだてかほなる朝霞かな。[34]『浄土宗典籍研究・資料篇』322頁
-ご詠歌-
には、
此御ゑいかハ春の題にて、
光彰遍照のもんを詠給ふ[35]『浄土宗典籍研究・資料篇』322頁
-浄土宗全書-
とあって、東大寺との関係を明示する語句を見ない。考えられることは、この詠歌が『勅伝』において「春」の題をつけていることである。『歌ことば歌枕大辞典』の「春日」の項には、
現在の奈良市春日野町、奈良市街の東にある奈良公園一帯の丘陵地をいう。春日山をとりまくかなり広い範囲の山裾の野が春日野と呼ばれた[36]『歌ことば歌枕大辞典』223頁
-歌ことば歌枕大辞典・春日-
とあって、「春日」の地にある東大寺と「春」の題がついているこの詠歌を結びつけたと思われる。
やわらくる、神のひかりのかけみちて、秋にかわらぬ、みしか夜の月。[37]『浄土宗典籍研究・資料篇』324頁
-ご詠歌-
の詠歌は『勅伝』には記載されていないが『翼賛』に記載されている。『翼賛』巻三十の注釈文に、
十巻傳ニ上人御童形ニテ皇圓ノ室ニ侍リ給ヒ早ク出家ノ本意ヲ遂ハヤト思召サルカクテ六月中ノ申ノ日ト云ニ日吉ノ社ニ通夜シテ此事ヲ祈給トテ和クル神ノ光ノ影ノミチテ秋ニカハラヌ短夜ノ月[38]『浄全』第16巻479頁
-翼賛-
とあり、日吉社での詠としているが、『案内記』には、
此寺におさめ奉る、日輪の名号ハ世にひのまるのめうこうといふそのむかし元祖大師宗門こうりうのきくわんに太神宮へ御参籠のとき、かんとくし給ふ日りんの内に、六字の弥陀の名号うかひ玉ふ是をそのまゝ、うつし玉ふものなり。
[39]『浄土宗典籍研究・資料篇』324頁
-案内記-
とあり、本来、日吉社で詠まれた歌であるが、「神」の語が含まれていることから伊勢の太神宮に参籠したときの日輪名号をおさめる寺であるという理由で、この詠歌が配されたと考えられる。
(後半の第十三番以後は次回とする)
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脚注[+]
↑1 | 『藤堂恭俊博士古稀記念・浄土宗典籍研究・資料篇』(以下『浄土宗典籍研究・資料篇』)256頁 |
---|---|
↑2 | 典籍研究・資料篇』(以下『浄土宗典籍研究・資料篇』)256頁 |
↑3 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』293頁 |
↑4 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』295頁 |
↑5 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』360頁 |
↑6 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』263頁 |
↑7 | 『佛教論叢』第45号29頁 |
↑8 | 『浄土宗全書』(以下『浄全』)第16巻110頁 |
↑9 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』263頁 |
↑10 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』267・268頁 |
↑11 | 『浄全』第16巻477頁 |
↑12 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』274頁 |
↑13 | 岩波書店『新日本古典文学大系』第57巻『謡曲百番』4頁 |
↑14 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』287頁 |
↑15 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』290頁 |
↑16 | 『藤堂恭俊博士古稀記念・浄土宗典籍研究・研究篇』885頁 |
↑17 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』292・293頁 |
↑18 | 『浄全』第16巻472頁 |
↑19 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』293頁 |
↑20 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』295頁 |
↑21 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』298頁 |
↑22 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』298頁 |
↑23 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』298頁 |
↑24 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』302・303頁 |
↑25 | 『浄全』第16巻472・473頁 |
↑26 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』304頁 |
↑27 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』308・309頁 |
↑28 | 『浄全』第16巻535頁 |
↑29 | 『浄全』第16巻535頁 |
↑30 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』309頁 |
↑31 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』317頁 |
↑32 | 岩波書店『新日本古典文学大系』第57巻『謡曲百番』197頁 |
↑33 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』319頁 |
↑34 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』322頁 |
↑35 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』322頁 |
↑36 | 『歌ことば歌枕大辞典』223頁 |
↑37 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』324頁 |
↑38 | 『浄全』第16巻479頁 |
↑39 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』324頁 |