目次
検討にあたっては、霊沢が二十五霊場を選定する際に参照したと思われる資料である、『法然上人行状絵図』(以下『勅伝』)や、『勅伝』の注釈書である『円光大師行状画図翼賛』(以下『翼賛』)と霊沢の『案内記』を対比して見ることとする。(本稿は二十五霊場のうち第十九番から第二十三番までとする。なお、掲載の詠歌は『案内記』の語に従った。)
誰たゝたのめ、よろづの罪ハふかくとも、わがほんぐわん本願の、あらんかぎりハ。[2]『藤堂恭俊博士古稀記念・浄土宗典籍研究・資料編』(以下『浄土宗典籍研究・資料編』)356~357頁
-ご詠歌-
の詠歌は、『勅伝』『翼賛』に記載されていない。『案内記』には、
此寺てら、むかしハ、錦小路東洞院にしきのこうぢひがしのとういんに有たゝ。くまがへ熊谷入道にうどうれんせい蓮生の開基かいきなり。入道にうどうかねて、大師だいしへこんもう懇望し奉たてまつりけれバ、御自作ごじさくに、座像壹尺ざそういつしゃくよ余に、きざ刻ませ玉ひ、下くだし玉ふ。これを本尊とあがめ、かんきよ閑居にもり奉たてまつりぬ。
[3]『浄土宗典籍研究・資料編』355~356頁
-案内記-
とあって、この寺が熊谷入道開基の寺であることを示している。そして、詠歌に関しては、
當寺たうじへかけ奉る。額の御詠哥ごえいかハ世よに傳つたへて熊谷くまかへが横取よことりの名号めうごうといふものなり。すなわち、御歌に唯たのめ、よろづの罪ハふかくとも、わがほんぐわん本願の、あらんかぎりハ。[4]『浄土宗典籍研究・資料編』355~356頁
-案内記-
と記述されている。「世に傳へて熊谷が横取の名号」について、『案内記』にはこれ以上の言及がない。『昭和新集法然上人全集』には「横取の名号」の由来に関するものと思われる文章が記載されている。すなわち「熊谷入道方へ状の御返事」というものである。そこには
又勢觀房へ書てさづけ候。金色の名號あまりにほしさに、押てとらる由うけ給候。是は罪がくるしからさるかの御尋承り候。たとひ罪にならず共、他人の物をさえて取る法や候。其上へ大なる罪にて候。いそぎかへされ候へ。是も腹のあしきからおこる事にて候。志はあはれに候ほどに、名號書て參候。[5]『昭和新修法然上人全集』1146~1147頁
-案内記-
とあって、勢観房へ授けた金色の名号を、熊谷入道が横取りしたことに対し、法然上人が急ぎ返すようにいわれ、新たに名号を書いて授けた際、付け書きした歌であることを述べている。この文章は、『京都清浄華院文書(室町期書寫)』のものであり、異本として、『眞如堂縁起』『明和元年刊眞宗遺文纂要(以下遺文纂要)』の2本があるが、3本ともに歌そのものは記載されていない。ところが、『遺文纂要』には、「熊谷入道に與へし名號に記せる和歌」として、
たゞたのめよろづのつみはふかくとも、我本願のあらん限りは[6]『昭和新修法然上人全集』1148頁。このページの脚注番号は誤りである。[70]は[72]、[71]は[73]、[72]は[74]である。
-遺文纂要-
と詠まれている。『遺文纂要』には「熊谷入道方へ状の返事」と「熊谷入道に與へし名號に記せる和歌」とが集録されている。このことからして、『案内記』の作者霊沢は、法然上人の歌ではないが、この寺の開基である熊谷蓮生に因み『遺文纂要』に基づいて、この歌を選定したと考えられる。 なお、この歌は謡曲『田村』にある、
唯ただ頼め、標茅原しめぢがはらのさしも草 我世の中に、あらん限りは[7]岩波書店『新日本古典文学大系』(以下『古典文学大系』)第57巻『謡曲百番』103頁
-謡曲『田村』-
に近似している。すでに霊沢は、第3番高砂十輪寺において謡曲『高砂』を、第9番當麻往生院において謡曲『當麻』を関連させている。それゆえ、この謡曲『田村』の歌も意識していたと思われる。
極楽ハ、はるけきほどゝ、聞しかどつとめていたる所なりける[8]『浄土宗典籍研究・資料編』357頁
-ご詠歌-
の詠歌は『勅伝』には記載されていないが、『翼賛』には記載されている。『勅伝』巻30にある法然上人の歌、
極楽へつとめてはやくいてたゝは 身のをわりはまいりつきなん[9]『浄土宗全書』(以下『浄全』)第16巻473頁
-勅伝-
の注記として『翼賛』では、
拾遺集仙慶法師極樂ハハルケキ程ト聞キシカトツトメテイタル所ナリケリ是ヲ本歌トシ給ト見エタリ此歌千載集ニハ空也上人ノ歌トアリ袋草子ニハ千觀内供トアリ[10]『浄全』第16巻473頁
-翼賛-
御法みのりの御舟みふねの水馴棹みなれざほ、ささでも渡る彼かの岸に、到り到りて楽しみを、極むる国の道なれや、十悪八邪じふあくはつじやの、迷ひの雲も空晴れ、真如の月の西方さいほうも、爰ここを去る事遠からず、唯心ゆいしんの浄土とは、此誓願寺を拝おがむなり。[12]『古典文学大系』第57巻『謡曲百番』551頁
-謡曲『誓願寺』-
とある。極楽が「遠からず」「到る」所ということで、法然上人の歌でなく、本歌を採ったと思われる。霊沢は、『案内記』の中、誓願寺の記述において、
内じん正面額ない陣しやうめんがく。南無阿弥陀佛一遍上人いつへんしやうにんの筆。せけん世間うたひもの本などにしるごとし[13]『浄土宗典籍研究・資料編』358頁
-案内記-
と述べて、謡曲の存在を示している。霊沢としては謡曲『誓願寺』に関した内容の詠歌を選び出した結果この詠歌となったと考えられる。
あミた阿弥陀仏に、そむるこゝろの、色に出いてバ、秋のこすへの、たぐひならまし。[14]『浄土宗典籍研究・資料編』361頁。表題の「勝林寺」は誤りである。「勝林院」が正しい。
-ご詠歌-
の詠歌は『勅伝』『翼賛』に「秋」の歌として記載されている。しかしながら、「大原勝林院」や「大原問答」に関する記述はない。『案内記』には、
文治ぶんぢ二年、秋、山門の座主ざす、顕真法印けんしんほういん、諸宗しよしうの碩学せきかくと、たんぎ談義のとき、元祖くわんそ大師、せんじゆねんぶつ専修念仏のしやう声明めうきずい奇瑞あり。[15]『浄土宗典籍研究・資料編』358頁
-案内記-
文治二年秋のころ。上人大原へ渡り給ふ。
-勅伝-
によってなされたと思われる。「大原問答」の行われた場所が大原勝林院であり、季節が秋であったことからこの歌が選定されたと考えられる。しかしながら、「秋」ということだけではこの歌を大原の寺に配する十分な理由とはならない。そこで、筆者は、謡曲『小塩』を提示したい。この曲は、在原業平の霊を主人公として、場所を京都の西側小塩山山麓大原野としている。この曲の中に、
陸奥みちのくの忍もぢずり誰たれゆへ、乱みだれんと思ふ、我ならなくにと、読よみしも紫の色に染そみ香かに愛めでしなり、(中略)妻も籠れり我も又、こもる心は大原や、小塩に続く通路かよいぢの、
-謡曲『小塩』-
とあって、「色」「染む」「心」「大原」という言葉により、この歌を勝林院の詠歌として配置したと考えられる。
われハ唯たゝ、ほとけ仏にいつか、あふひ草、心のつまに、かけぬ日ぞなき。
-ご詠歌-
の詠歌は『勅伝』に「夏」の歌として記載されている。『翼賛』には、
此歌一説ニ賀茂ノ河原屋ニテ賀茂ノ祭ヲ見て詠給ヘル歌ナリ 知恩寺傳説 集ニハ釋教ノ部ニ入傳ニハ四季歌トスルハ撰者ノ作爲歟サアラハ傳説モサアラン歟是賀茂祭ノ葵ニホソヘテ佛ニイツカ逢ント見佛ヲ願ヒカケヌ日ソナキト念々不捨ノ意樂ヲ兼テ詠給フ也大師祭ヲ見タマフニツケテモ常修ノ志願ヲ述給ナルヘシ
-翼賛-
とあるように、「知恩寺伝説」によれば、法然上人が賀茂の河原屋において、葵草を柱や簾に掛ける賀茂の祭によせて詠まれた歌であるとする。しかしながら、霊沢の『案内記』にはこの歌が賀茂の河原屋で詠まれたという記述はない。ただこの河原屋について『案内記』には、
當寺たうしハ、じかく慈覚大し師のさうゝ草創、下賀茂明神ミやうじん、法楽はうらくしゆほう修法の地。かも賀茂のしんぐうじ神宮寺、かわらや河原屋といゝし、元祖大師ぐわんそたいし、明神の、れいむ霊夢によって、神宮寺しんくうしの釈迦仏を乞請こひうけ玉ふて、住持ちうちあり。
-案内記-
と記して、知恩寺が賀茂の神宮寺、河原屋と呼ばれたことのみを示している。また知恩寺の場所についても『案内記』では、
此このちおん寺知恩じハ、昔は今出川相國寺いまでかわしやうこくじの地也。油小路一條あぶらのこうじいちでうに引うつひき移さる。そのゝち、太閤秀吉京極土御門たいこうひでよしきやうごくつちミかとの南に移され近年北白川きんねんきたしらかわ今の地にうつさる。
-案内記-
とあって、知恩寺が、初めは今の相国寺の場所であったことを明かしている。霊沢は知恩寺が「賀茂の神宮寺」と呼ばれ、今の相国寺の場所であることを説きながら『翼賛』が示す詠歌の由来を示していない。それは何故なのか。筆者が思うに、霊沢は「賀茂の神宮寺」「河原屋」と記すことで、「賀茂の祭」「葵草」を想起するこの詠歌を選定した理由が、『案内記』の読者には理解されると考えたのではないか。それゆえ、詠歌を掲示するのみとなったと思われる。
雪の内に、佛の御名ミなを、となふれバ、つもれる罪も、やがて消きへぬる。
-ご詠歌-
の詠歌は『勅伝』に「冬」の歌として記載されている。
しかしながら『翼賛』にはこの歌の詠まれた場所についての記述はない。また『案内記』には、
此御寺おてらハ禁裏御内道じやうきんりごないとう場ゆへ、寺号山号しごうさんごうなし。もとハ、内裏だいりの北、五辻いつゝじに有ありし。中比なかごろ今の所へ引移さる。元祖大師三帝くわんそだいしさんていの御かいし戒師とならせ玉ふとき、しばらく此道場このどうしやうにぢうしよく住職あそばしぬ。
-案内記-
とあって、法然上人が三帝の戒師であることを示しているが、この歌の由来についての記述はない。ただし、『翼賛』にはこの歌の解説として
此歌ハ佛名會ノ詠也(中略)佛名會ハ諸宗通用シテ毎歳臘月ニ之ヲ修ス又受戒ノ前或ハ犯戒ノ後此佛名ヲ修ス。佛名ノ興起ハ續日本紀三代實録帝王編年紀公事根源等ニ載リタリ。(中略)歌ノコゝロハ雪ノウチトハ時節ヲイヒ又罪ニヨソヘ佛ノ御名ハ三千佛名ヲ唱フ積レル罪トハ無始巳来ノ罪障今悉ク懺悔ノ力ヲモテ三業清浄トナルヲ云ソレヲヤカテ消ルトハ云ナリ大師佛名會ヲ修シ又カゝル詠モナシ給フナルヘシ
-翼賛-
と述べている。この文章により、この歌が「仏名会」の詠歌であること、「仏名会」が毎年12月に修し、また「受戒」の前、「犯戒」の後に修すこと、「仏名会」の興起が「帝王編年紀」に記載されていること、この歌の意味が仏名を唱えることにより無始以来の罪障すべてが懺悔の力で「三業清浄」となりやがて消えることがわかる。それゆえ、霊沢は、「戒師」「受戒」「帝王」「三業清浄」の言葉から、「仏名会」の歌であるこの歌を、清浄花院に配したと考えられる。
(第二十四番以後は次回とする)
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脚注[+]
↑1 | 『佛教論叢』第48号113~119頁 |
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↑2 | 『藤堂恭俊博士古稀記念・浄土宗典籍研究・資料編』(以下『浄土宗典籍研究・資料編』)356~357頁 |
↑3 | 『浄土宗典籍研究・資料編』355~356頁 |
↑4 | 『浄土宗典籍研究・資料編』355~356頁 |
↑5 | 『昭和新修法然上人全集』1146~1147頁 |
↑6 | 『昭和新修法然上人全集』1148頁。このページの脚注番号は誤りである。[70]は[72]、[71]は[73]、[72]は[74]である。 |
↑7 | 岩波書店『新日本古典文学大系』(以下『古典文学大系』)第57巻『謡曲百番』103頁 |
↑8 | 『浄土宗典籍研究・資料編』357頁 |
↑9 | 『浄土宗全書』(以下『浄全』)第16巻473頁 |
↑10 | 『浄全』第16巻473頁 |
↑11 | 『佛教論叢』第45号28頁 |
↑12 | 『古典文学大系』第57巻『謡曲百番』551頁 |
↑13 | 『浄土宗典籍研究・資料編』358頁 |
↑14 | 『浄土宗典籍研究・資料編』361頁。表題の「勝林寺」は誤りである。「勝林院」が正しい。 |
↑15 | 『浄土宗典籍研究・資料編』358頁 |