目次
検討にあたっては、霊沢が二十五霊場を選定する際に参照したと思われる資料である、『法然上人行状絵図』(以下『勅伝』)や、『勅伝』の注釈書である『円光大師行状画図翼賛』(以下『翼賛』)と霊沢の『案内記』を対比して見ることとする。
(本稿は二十五霊場のうち第二十四番から第二十五番までとする。なお、掲載の詠歌は『案内記』の語に従った。)
池いけの水ミず、人の心こころに、似たりけり、におりすむこと、さだめなければ[2]『藤堂恭俊博士古稀記念・浄土宗典籍研究・資料篇』(以下『浄土宗典籍研究・資料篇』)368頁
-ご詠歌-
の詠歌は『勅伝』に記載されているが、詞書はなく、詠まれた場所についての記述はない。『翼賛』には、
此歌續後拾遺集ニ入テ題シラストアリ但シ我心池水ニコソ似タリケレ濁リスムコト定ナクシテトアリ一説ニ是レ加茂ノ河原屋ニテ庭上ノ池水ヲ見テ詠ストアリ 知恩寺傳説[3]『浄土宗全書』(以下『浄全』)第16巻478頁
-翼賛-
とあって、この歌が一説、つまり「知恩寺伝説」においては、法然上人が知恩寺の旧地である賀茂の河原屋にて庭の池水を詠まれた歌であると述べている。また『翼賛』には、この歌に関した記述が他に二箇所存在する。一つには勢観房源智上人の伝記の注記文に
河原屋ハ當時相國寺ノ地ナリ松鴎軒ニ法然水ト云アリ池水ノ御歌此ノ處ノ詠ナリト云[4]『浄全』第16巻638~639頁
-翼賛-
とあり、二つには寺院の注記のうち、功徳院の注において、
又相國寺ノ内松鴎軒ニハ法然水ト云モ今ニ遺ノコレリ 池水ノ御歌此ノ處ノ詠也トソ[5]『浄全』第16巻807頁
-翼賛-
とある。この二箇所ともに、賀茂の河原屋は現在の相國寺の地であり、その寺内松いるか軒にある法然水と呼ばれる池が「池の水」の歌の地であると述べている。
では霊沢の『案内記』にはこの歌はどのように記されているのであろうか。霊沢はこの歌を金戒光明寺の額詠歌としながら、一方で法然水のことを記している。第二十番誓願寺から第二十一番勝林寺へ至る道順の中に、
きんりきんりの北きたのもんもんを、出でぬけ、相國寺しやうこくじの、内うちに、松鴎しやうおう軒といふ、きやうない境内に、池あり。法然水ほうねんすいといふ。是大師これだいしの、いけ池のミづ水、ひとの心と、詠えいじ玉ひし、きうせき旧跡なり。[6]『浄土宗典籍研究・資料篇』359~368頁
-案内記-
とあって、この歌が法然水と呼ばれる場所で詠まれたことを示している。このことは、金戒光明寺で詠まれていないことを意味している。
霊沢は『案内記』の序文において
一、 二十五しゆ首の御ゑいか詠歌ハ、大し師の御じゑい自詠なり。もつともその寺々にて、詠えいじ給ふことにハあらねど、二十五のばんぐミ番組をほつき発起ゆへに、其その御寺御寺へ御ゑい詠哥かのがく額、かけてしらしむ。[7]『浄土宗典籍研究・資料篇』256頁
-案内記-
と述べて、二十五霊場の詠歌が、その場所で詠まれていないことを自ら認めている。「池の水」の歌もそのひとつである。 それでは、この歌をあえて金戒光明寺の額詠歌とした理由は何か。『案内記』はこの寺の記述の中で、
鎧よろいの池、鎧かけ松まつ、是熊谷直実これくまがへなをざねふつしん仏信のおり折、よろい鎧ぬ脱ぎあら洗ひ、まつ松にかけ、せつしやう殺生さんげ懺悔、せんじやう戦場のけがれを洗あらひしか、いざしらず。[8]『浄土宗典籍研究・資料篇』369~370頁
-案内記-
と記して、「鎧の池」を案内している。熊谷直実が入信のおり、鎧を洗った池なのか不詳ではあるが、そう呼ばれている池の存在を示している。
霊沢は、この「鎧の池」にちなみ、本来法然水の場所で詠まれたこの歌を金戒光明寺の額詠歌にしたと考えられる。
草も木も、枯れたる野のべ辺に 唯ひとり、松のミ残る、弥陀みだのほんぐわん[9]『浄土宗典籍研究・資料篇』372頁
-ご詠歌-
の詠歌は『勅伝』『翼賛』に記載されていない。そして『案内記』にはこの詠歌に対する言及がない。
この歌は二つの資料に記載されている。すなわち、
1.『浄宗護国篇』観徹述、良信録。正徳二年(1712)
2.『新撰往生伝』風航了吟撰。寛政五年(1793)
の二である。いずれも増上寺第十二世観智国師存応上人(以下存応)の伝記の中に記されている。
『案内記』は明和3年(1766)に刊行されているので、霊沢が参照したとすれば、『浄宗護国篇』であると思われる。必要箇所をここに引用する。(筆者書き下し文に直す)
神君兵事有る毎に或いは寺に往きて師に謁し、或いは迎えて城に入れ必ず十念を受く。慶長年中、大軍を率いて敵場へ赴くの事有り。請うて十念を受く、師之に謂いて曰く。
公姓松平、松也千歳を閲歴して而も枯死せず、之を大廈かに施す、棟梁の用有り、四時葱倩そうせん、能く雪霜を明かす、君子の操有って、大夫の封を受く。是以って世に瑞物と為す。祝いて壽考を比すれば、其の字也。木公の聲從り、細かく之を分ければ、即ち是十八公也。而して阿彌陀佛、六八本願之中、第十八を以って褒めて願王と稱す。何ぞ釋迦は觀讚し諸佛は舒するや。三世如来十方佛刹の中に於いて阿彌陀佛、特に超世の美を檀するは、此の顔を發すの故を以って也。亦夫れ人臣は大功有れば即ち公を授けられ王に封ぜらる。然れば則ち十八願王と十八公と其の言類を同じくす。公は十八公を姓として治國の法を十八願王に資す。能く、阿彌陀佛、悲深く願廣くして極惡の者と曰わると雖も、而して一稱一念の功を捨てず、遠く神足を枉まげて病床汚穢の間に來迎し、安養の報刹に攝取するが如くは、名實符合し生佛一體す。松氏の治は即ち是れ彌陀の益、彌陀の化は即ち是れ松氏の任と謂つ可し。是によりて之を觀るに、淨教は松氏と因縁大いに有りに非ずや、抑も又公壽の算、永久にして遂に天下を安靖するの休祥に非ざるや。經に曰く天下和順、日月清明、風雨時に以ってし、災厲起きず、國豐かに民安く、兵戈用無く、徳を崇め仁を興し、務めて禮讓を修む。此の淨教國家を護持するの聖證也、金口の所説、豈唐捐とうえんせんか、公猶豫すること勿れと。
神君聴受し深く之を感歎し乃ち一誓を發して曰く道は人に藉よりて弘む、人は必ず處に依る。此の三は、畢みな備わざるべからざるなり、是の行、利を得れば、必ず精舎を十八區に建て、永く叢林と為し、多く英才を育て、以って法運無窮の謀と為すなりと。
師亦謂いて曰く淨土の教、末代時機に宜かなふ所也。是の故に末法萬年の後、三寶悉く滅すとも猶此の經を留む。松氏亦復是の如し、凶敵盡ことごとく亡ぶとも、松氏永く安らかなること猶雪霜既に降りて萬木黄落の後、松樹獨り榮茂するが如し。今よりの後眞俗相翊たすけ、法化日に煽り、能く國を享け年を永くするの効有り、即ち和歌を吟じて曰く、
艸木枯野遠唯獨松殘彌陀本願
神君大いに懽よろこび師を帥ひきいて行く、遂に大勝を得。是に於いて、神君師の先讖しんの虚しからざるを信ずる也。天下巳に定まり甲を解き兵を休むに逮および、神君先誓に食いつわらず果たして武總野等數州に於いて淨宗の教黌を開創する者凡そ十八所、今世に呼んで十八檀林と謂ふは是也。此れ葢し家姓十八公を表示し、以って國運と法運と共に窮り無きを得て、福祥を増致して永く萬國を保たんことを祈祝する也。[10]『浄全』第17巻609~610頁
この文を要約すれば、
1.存応が、関が原の戦いの折、徳川家康に十念を授けて以下のことを話された。
2.徳川家は元来松平家である。松は専念を経ても枯れない瑞物である。
3.松の字を細かくすれば十八公となる。
4.阿弥陀仏の四十八願の中、第十八願は願王と称されている。
5.人臣も大功あれば王に封じられた。
6.十八願王と十八公と類を同じくしている。
7.松平氏の治世は阿弥陀仏の利益と謂うべき。
8.浄土宗と松平氏の因縁は大きい。
9.経にも天川順、国豊に民安くと説かれている。
10.浄土宗の教えは国家を護持する聖證であるから、猶予せず用いるべきである。
11.これに対し、家康は深く感歎して一つの誓いを発す。
12.この行軍に利を得たならば、精舎を十八区に建立して、叢林となし、英才を育てて法運を謀ろうと。
13.これに応えて、存応は、浄土の教えは末法万年に猶留まる。松平氏の亦同じ。万木が黄落しても松が独り栄茂するように、敵が亡んでも松平氏は永く安泰である。即ち和歌を吟じて曰く、草も木も枯れたる野辺に唯独松のみ残弥陀の本願
14.家康これを聞いて大いに喜び、存応を帥いて行軍し遂に大勝を得た。
15.家康が天下を安定させた時に、先の誓いに違わず武蔵など数州において浄土宗の教校を開創された。
16.今世に十八檀林と呼ばれているのは、このことである。
とあって、この歌は、関東十八檀林開創の物語の中で、あらゆる草木が枯れた中にあって松のみが残ることを表層で詠みながら、第十八願と松の字に基づく十八公を対比させ、浄土の教えと松平氏の治世を関連づけた歌である。
それでは、何故この歌が知恩院の額詠歌とされたのか。筆者は以前の発表で「弥陀の本願」の語に注目した。[11]『佛教論叢』第45号29頁『勅伝』には、
延暦寺東塔 竹林房靜嚴法印。吉水の禅房にいたりて。いかかして此たひ生死をはなれ候へきとの給けれは。源空こそ尋申たく侍れと答申されけるに。法印又决擇門はさる事にて。出離の道にをきては。智徳いたり道心ふかくましませは。定めて安立の義候らんと申さるれは。源空は彌陀の本願に乘して。極樂の往生を期する外はまたく知ことなしと。[12]『浄全』第16巻221頁
-勅伝-
とあり、『案内記』には
本堂ほんだうの地ち則すなわち大し師の御舊住こきうしゆう。吉水よしミづの御坊ごはうなり。[13]『浄土宗典籍研究・資料篇』372頁
-案内記-
と記されている。霊沢は知恩院の額詠歌を選定するに当たり、元の地名である吉水の禅房にて、法然上人が弥陀の本願を説かれたことに因み、法然上人の詠まれた歌ではないが「弥陀の本願」の句を含むこの歌を選んだと考えられる。(第二十四番以後は次回とする)
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-ご詠歌-
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-案内記-
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-翼賛-
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-勅伝-
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-文献名-
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脚注[+]
↑1 | 『佛教論叢』第49号319~324頁 |
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↑2 | 『藤堂恭俊博士古稀記念・浄土宗典籍研究・資料篇』(以下『浄土宗典籍研究・資料篇』)368頁 |
↑3 | 『浄土宗全書』(以下『浄全』)第16巻478頁 |
↑4 | 『浄全』第16巻638~639頁 |
↑5 | 『浄全』第16巻807頁 |
↑6 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』359~368頁 |
↑7 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』256頁 |
↑8 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』369~370頁 |
↑9 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』372頁 |
↑10 | 『浄全』第17巻609~610頁 |
↑11 | 『佛教論叢』第45号29頁 |
↑12 | 『浄全』第16巻221頁 |
↑13 | 『浄土宗典籍研究・資料篇』372頁 |